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ID.4764
 
■投稿者:マダラマゼラン一号 
■投稿日:2017/08/07(月) 19:51


六月の龍が眠る街 第四章 前編
「なんであそこで踏みとどまったんだ? 確実に仕留められた筈じゃないか」
真っ暗な部屋でベッドに横たわる私に、スピーカーの男が言った。私は暑い夏の夜に、下に一枚下着を着ただけの姿で眠りながら男と話していた。
「私に聞かないでよ。私がああなったら、自分をを少しでもコントロールすることはできないって、知ってる癖に」
「ああ、すまないね。つい君をからかってしまいたくなるんだ」男が心底申し訳なさそうな、ねっとりとした甘い声で言う。スピーカーから溢れたその声が裸も同然の身体に絡みついてくるような気がして、私はひどい悪寒を覚えた。
「気持ち悪い声を出さないで」なんでこの男にこんなにも生理的な嫌悪感を覚えるのだろう? 私は彼の声しか知らないのに。
「そんなに怒らないでくれ。私だって君のことをちゃんと大切に思っているんだよ」
「だったら一回で覚えてくれる? 私が選べるのは〈あの力〉を使う時間と場所だけ、それからのことは、私には関係のないこと」
「そうは言っても、実際に動くのは君自身の体だろう?」
「やめてよ、今日はしつこいわね。何が言いたいのよ」
「私たちは共犯だということだよ。例え君が何も覚えていなくても、事実君は自分の手で少なくない数の命を手にかけているんだ。そしてそうすることを選んでいるのは、他ならぬ君自身なんだよ」
私はひゅっと息を飲んだ。いつも考えないように、考えないようにとしていること。私は本当に何も覚えてない。でも私の身体は、それをいつの間にか覚えてしまっている。耳には悲鳴が、目には血飛沫が、鼻には血の匂いが、そして手には感触が、知らないうちに染み付いてしまっているのだ。それを思うたびに、私はひどい過呼吸に襲われる。露わになったままの胸を押さえて落ち付けようとした。過呼吸は起きなかったが、目からはとめどなく涙が溢れる。この生暖かい塩水の感触が私は昔から嫌いだった。涙がなんの痕跡も残さずに夜の闇に解けて仕舞えばいいのに。今頭を乗せている枕だって、こんな汚れた私の涙など吸いたくはないだろう。
「なんでそんなこと言うのよ! 私はあなたの望むことを、ちゃんとやってあげているじゃない!」
「そうだね。そして私はそれにちゃんと対価を払っている。昨日の分はちゃんと振り込んでおいたよ」
私はさっきよりももっとひどく、声を漏らして泣いた。身体を売っているような気分だ。私の周りにも、そういうことをしているという噂がある子がいる。その子も、自分の体で稼いだ汚れたお金を受け取った時にはこんな風に泣くのだろうか。
「そう泣くんじゃない」男は嬉しそうな声で言った。私の涙が、この男を悦ばせているのだ。涙を止めたかったが、そう思えば思うほど声は止められなくなる。
「次の仕事の話をしようか、しかし今はやめた方がいいね。後で文面にして送るよ」男はまるで女を気遣う心優しい紳士であるかのような口ぶりで言った。
「これならもずっとそうして、もうあなたと話したくはないわ」
「でも君は私の話を聞かなくてはいけない、生きていかなくてはいけないからね」男は最後に言った。「大好きだよ」
その言葉を聞いた私の身体中に大きな震えが走る。沈黙を取り戻したスピーカーに向かって手元の枕を投げつけた。
「大っ嫌いよ、あんたなんか」
私はまだ涙を流したがる身体に鞭打ち、身体を起こした。ベッドのスタンドランプをつけるとLEDライトの白い光が目を刺す。ひどい頭痛をおぼえた。昼間の太陽を浴びた時にはもっとひどい頭痛を起こす。私はもう光をまともに見ることもできなくなってしまった。
「あの人も、そうなのかな」彼も、眩しい光に刺すような痛みを感じるのだろうか。彼のことを考えると、少し心が安らいだ。
涙は正常な証拠だ。どんなに身体が汚れても、心はそれに慣れてはいけない。私は泣き続けないといけない。いざという時に、私自身が正しい道を選ぶために。

あの人を、壊してしまわぬように。

*****

長いトンネルを抜けた瞬間に電車の中を眩しい夏の光が照らし出し、北館祐はひどく顔をしかめた。
「ユウ、大丈夫か?」通路を挟んで向かい側の席に座る夏目秀が心配そうに声をかけてくる。北館は首を振って言った。
「昔からこうなんだ。あんまりにも陽の光が強いと、頭痛になっちゃうんだよ」正確には一三歳の頃、〈十闘士〉の一人として選ばれ、闇のスピリットを受け入れた時からだ。スピリットは受け入れた人間に進化の力を授けるだけでなく、その体質に様々な影響を及ぼすらしい。闇のスピリットだから光に弱くなる。筋の通った話だがまったく迷惑極まりない。ちなみに一条秋穂は鋼のスピリットを受け入れてから妙に腹筋が硬くなってしまったとぼやいていたが、それがスピリットの影響かについては北館は半信半疑だった。
「痛み止め、貸そっか?」彼と向かいあった席に座る三浦真理がリュックサックから薬の箱を出してきたので、北館は慌てて手を振った。
「いや、ありがたいけど遠慮するよ。そこまで大したことでもないし」
「真理、それ、生理痛のために持ってるやつでしょ。軽いノリであげちゃわない方がいいわよ」夏目の向かいに座る美嘉が声をかけてきた。好きな女の子の生理の話題についてどんな顔をすればいいのかわかるほど人間ができていない北館は何も言わず俯いた。沢山持ってるから別にいいのに、と真理が言う。

北館達は夏休みの課外学習のために鈍行の列車を乗り継いで青森に向かっていた。青春18きっぷを使っているからそう金はかからなかったが、道中はとにかく退屈だ。テイルモンも夏目の座席の下に寝転がり(あそこものすごい暑いんじゃないのかな、と北館は気になって仕方なかった)欠伸をしている。
向かい合わせになった四人席を二つ、彼らは占領していた。片方には夏目秀と彼から一時も離れようとしないと美嘉と絵里、もう片方は北館と真理が座っていた。
「私たちはステファンと一緒の席になってあなたは真理ちゃんと二人きり、何一つ問題ないでしょ。恥ずかしいからイヤだなんて言ったら北館君一人だけ荷物と一緒に座ってもらうから」というのは北館の真理への気持ちを知る絵里が席決めの時に彼に囁いた脅しの言葉だ。まったく、恋する乙女というのは恐ろしいものである。

「青森に着いたら、まず何する?」美嘉がメンバーを見渡して尋ねた。研究テーマは太宰治だが、女子二人にとってはこれからの三日間には学年一のイケメンとの泊りがけの旅行であること以外に意味はない。太宰治なんかは北館みたいな文学オタクに任せておけばいいのだ。
「俺は知り合いに挨拶したいかな。宿の近くで夏の休暇をとってるんだよ」夏目が言った。神原ヒトミとその周りの大人達のことを言っているのだろう。北館が秋穂から聞いた話だともう既に店を閉め向こうに行っているということだ。班のメンバー全員で彼らに会いにいくにいくようなことはできないと北館は予め夏目に言っておいた。彼はバー〈アイス・ナイン〉を襲撃した時に辻玲一に素顔を見られてしまっている。レーベモンの正体が北館であることを秘密にすると誓った夏目はその願いを聞き入れてくれた。
「それも明日にした方がいいな」北館は言う。「着く頃には多分もう夜だ。宿に入って寝る以外には何もできないと思うよ」
「今どこの駅?」女子二人とトランプに興じていた夏目が北館のその言葉に尋ねた。彼は窓の外に目をやり案内板の駅名を読み取る。
「花巻だよ、宮沢賢治の故郷、えーと」彼は地図にその地名を探した。
「岩手の真ん中よりちょっと南寄り、って感じかな」真理が彼より先に言った。
「えーっ、まだそんなとこ?」岩手長すぎ、と美嘉が言った。「ここで降りちゃおうよ、研究は宮沢賢治でいいじゃん」宮沢賢治も太宰治も大して変わりはないと言いたげな口ぶりだ。
北館は苦笑して窓の外に目をやる。秋穂はどこで何をしているだろうか、一週間前の〈会合〉で、流石に班でまとまっての研究旅行にくっついて行くのは無理があると言った彼に彼女は胸を張ってみせた。
「私がそんなアタマが悪い手を使うわけがないじゃない。こう見えて知性派タイプなの、私」
「鋼の腹筋を持つ武闘派だと思ってたけど」
「ユウくんだって十闘士に関わる神話をちゃんと知ってるはずだよ。鋼の闘士は〈世の理を知る賢者〉なんだからね」賢者ねえ、とからかう北館に秋穂はムキになって言った
「とにかく、行く方法は秘密にしておくわ。向こうで私と出会うことになった時の北館くんの顔が楽しみね」

*****

僕は青森の屋敷の中庭に面した部屋で昼食のそうめんをすすった。中庭はそこまでの大きさこそないものの、苔むした岩や木の美しい緑を桔梗の紫の花が彩る立派な日本庭園だった。窓を開け放てば、庭園の景色に多少は涼しさを感じることができる。
とはいえ、風情だけで乗り切れるほどこの夏は生半可なものではなさそうだった。テレビ番組がその年を「十年に一度の猛暑」だと報じるのにはとっくに慣れっこになっていたが、今年の暑さは確かに異常であることを肌で実感できる。これではなんのためにわざわざ本州最北端の県まで来たのか分かったものではない。

「やっぱり玲一さんの作る料理は美味しいですねー!」
僕は一条秋穂という少女のその言葉に苦笑した。「ただのそうめんじゃないか、誰が作っても同じだよ」
「でもやっぱり特別美味しいですよ。ヒトミちゃんもそう思うよね?」タンクトップ姿の彼女の言葉にヒトミもにっこりと笑ってみせた。ヒトミはカナリヤ色のシャツを着て、髪を横に束ねている。結局髪を伸ばしたまま青森まで来てしまっていたのを、一条秋穂がピンク色のゴムでまとめてあげたのだ。
周りがトウのたったオジサンばかりだと退屈だろうから友人を青森行きに誘っても構わない、と言ったのは僕だ。てっきり小学校の友達を連れてくるだろうと思っていたのが、女子高生を引っ張ってきたのには驚いてしまった。
「ヒトミちゃんとは、私が参加してる地域ボランティアの活動で知り合ったんです」というのは一条秋穂の言だ。聞けばヒトミの学校もそのボランティアに参加していて。街のごみ拾いをしたり、花壇に花を植えたりする中で一条秋穂と特に仲良くなったのだという。首にヘッドフォンをかけたその少女は、地味な見た目の割に快活で悪い人間ではなさそうだったが、決して真面目な印象−−少なくとも進んでボランティア活動に参加するような印象−−は受けなかった。とはいえ、高校生の夏休みをわざわざ大して知らない幼い少女とその取り巻きのオジサン達との旅行に費やすような子だ。少し普通ではないところが大いにあるのだろう。ヒトミと仲が良いことだけは間違いなさそうだったので連れていくことにした。
「そういえば今日は、高視がこっちにくるんだな」僕は何とは無しに呟いた。まったく偶然なことに、夏目秀も夏休みの課題研究のために青森を訪れるらしい。それに伴い。高視聡もこちらにやってくる。彼は少しも遠慮することなく僕らが借りたこの家に泊まると宣言してきた。もっともこの家はヒュプノスの仙台支部長の持ち家らしいから、仮に不満でも僕には文句を飛ばす権利もないわけだけど。
「何か言いました?」秋穂が声をかけてくる。まったく耳ざとい子だ。
「おじちゃんがもう一人来るんだよ」僕の代わりにヒトミが質問に答えた。彼女は大人達のバーでの会話をほとんど盗み聞きしていて、僕たちが立てていた旅行の計画についてはなんでも知っている。ヒュプノスだのデジモンだののことは言ってはいけないということはちゃんと分かっているみたいだったのでこちらとしては構わなかった。
「そうなんだよ。悪いね、折角の夏休みなのに、同級生達と予定はなかったのかい?」
僕の問いに秋穂はにっこり笑って見せた。「ないこともないですけど、私はそれよりどんな人が来るのかの方が気になります。加納さんや辻さんみたいにイケメンですか?」
「お世辞を言う相手を間違ってるよ」僕は苦笑する。加納がなかなかにハンサムな顔立ちをしているだけに、ついでで付け加えられた自分の立場に若干の虚しさを覚えた。高視の顔を立ててやることも考えたが、僕は高視よりも男前の奴がついて来ると言って夏目の話題を出すことにした。高視には僕と一緒に比べられる者の虚しさを味わってもらうとしよう。
「夏目って、光台高校の夏目秀君ですか?」私も光台高で、夏目君とは同級生なんですと秋穂は言った。知り合いならなおのことイケメンの来訪を喜んでも良さそうなものだったが彼女の反応は思ったよりそっけない。まるで夏目の合流を初めから知っているかのような態度だ。それとも単に年上が好みなだけかもしれない。僕は後者の説を採った。そちらの方がなんとなく気分がいいからである。

「それにしても、ハンサムボーイの加納さんはどこに言ったんだ? 昼飯も食わずに」素麺を片手に煮えたぎる前の鍋に立ち、食事の準備をするよう少女たちに呼びかけた時にはもう彼の姿は見えなかった。あれから一時間弱ほど経つが、彼が帰って来る気配はない。
「長電話だよ」ヒトミが言った。つまり、仙台にいるヒュプノスの上司と電話をしているのだろう。一般人の秋穂がいるために、この家の中ではデジモン絡みの話は持ち出せなかった。僕は男用の寝室で涼みながら眠っているギギモンのことを思い出す。スーツケースにギギモンの赤い体を無理やりに詰め込んでここまで連れてきた時には秋穂のいる前で飛び出して来るのも時間の問題だと思っていたのだが、体内に熱を溜め込んでいる龍型デジモンにとって夏は厳しい季節らしく、昼間はずっと大人しくしてくれている。それに関しては今年の猛暑に感謝しなくてはいけないとは思った。
そう思った矢先、二階でごそごそと音が鳴った。ついに始まったか、と僕はため息をついて秋穂に目をやる。彼女はまだ上で龍が暴れ出したことに気づいていないようだ。ヒトミの方を見ると彼女もこっちを見て、歳に合わない不敵な笑みを浮かべて目配せをしてきた。どうやら、ここは自分に任せておけということらしい。
「ここは暑い、ちょっと二階に引っ込むよ。二人は好きに遊んでてくれ」そう言って、僕は立ち上がった。二階へと向かう僕の後ろでヒトミが秋穂に囁くのが聞こえた。
「秋穂姉ちゃん、アイス買いに行こうよ。玲一おじちゃん歯に悪いってなかなか買ってくれないんだよね」
やれやれ、と僕は首を振った。全く頼りになる子だ。バーでの生活の中でヒトミが妙な処世術を身につけているのではないかと思うと少し怖くなった。

二階に上がると光の差してこない廊下の埃っぽい静かな涼しさが身にしみる。前をみると、ペチペチという足音とともにギギモンがこちらまで歩いてきていた。
「部屋の外に出ちゃ駄目じゃないか」僕は言ったがギギモンはそれを意に解することなく小さな足で歩き続けている。力づくで部屋に連れ戻すことも考えたが、ギギモンが唸ったり噛み付いたりして騒ぎになってはまずい。「分かった分かった。外に連れてってやるよ」僕はかがんでギギモンにそう言うと両手を前に差し出した。それなら文句はないと言うように鼻で息を一つしたギギモンがその腕に飛び乗る。ギギモンを背中で隠すように持ちながら階下に降りるとヒトミと秋穂はもう出かけた後だった。玄関の扉を開き、家の前の通りを見渡す。さすがは田舎といったところか、人影は全くない。そのことを確認して僕がギギモンを下ろすと、彼は西の方向にまっすぐ歩き始めた。
「おい、どこ行くんだ」僕もそれを追いかける。

*****

「支部長、そっちは問題ないですか?」加納満は家の裏の道路に立ち四ノ倉正敏仙台支部長に尋ねた。人影は彼以外に一切ない。住民はいるらしいが昼間はほとんど会うこともなかった。
「ああ。今の所、軽微なリアライズしか起こっていないよ。そちらは何もないね?」青森の屋敷を夏一杯貸してくれているのだからもう少し恩着せがましい態度を取っても良さそうなものだが、加納にはむしろ四ノ倉が旅行の話題について避けているようにさえ思えた。奥ゆかしいと言うか、何にせよ金持ちの考えることは分からない。
「こっちは上々ですよ、高視も今日の午後には着くって言ってましたし。しかし立派な家ですね。支部長の家ってなんかそういう立派な家系なんですか?」加納は不躾な質問と知りながらもそう聞いた。屋敷の中には至る所に家紋入りの桐箪笥や古伊万里の花瓶、名のある画家(加納も辻も絵のことなど何一つ知らない。秋穂がそう言ったのだ)の手になる掛軸が置いてあり、歴史を感じさせる家だった。加納の質問に四ノ倉は妙にまごついて、いや何も知らない、というふうなことをもごもごと言った。本当に知らないはずはないし、かと言って謙遜しているようにも聞こえない。加納は首を捻った。
「そんなことは、どうでもいいんだ。聞いてくれミチルちゃん、遂に〈シャッガイ〉が完成したんだ」
加納は空いた口が塞がらなかった。「ついこの間まで凍結されてた計画だと思いましたけど」
「ああ、しかし完成した。上層部も認可するだろう。シャッガイがあればリアルワールドにいるデジモンをあらかた片付けることができる。〈十闘士〉だってその例外じゃない」
加納は疑念の思いを隠せなかった。あまりにも寝耳に水の話だ。その時、道の向こうから辻がこちらに歩いてくるのが見えた。彼は足元に夢中でこちらに気づいていないようだ。その足元には赤色のゴムボールのような物体が転がって進んでいた。ギギモンだ。
「何してんだ、あいつ」加納は口の中で呟く。
「ん? 何か言ったか?」
「いえ、開発成功おめでとうございます。ちょっと切りますね」彼はそう言って電話を切り、辻に駆け寄る。
「何してんだ、こんなとこで」
「ギギモンが急に歩き出してな。どうも普通の様子じゃない」
「ヒトミちゃんはどうしてる?」
「一条さんとアイスを買いに行ったよ」
デジモンが出たらどうするんだ、と加納は聞かなかった。夏の暑さに頭をやられていたのかもしれない。
二人は赤い球体のゆっくりとした歩みを辿り始めた。

ギギモンは精一杯手足を動かしているらしい、それはわかるがその短い足での歩みは人間にとっては焦れったいものでしかなかった。
「なあ、加納」不意に辻が尋ねる。
「なんだ?」
「お前が最初に僕の店に来てから、そろそろ二ヶ月だ」
「ああ」
「そろそろ、話してくれてもいいんじゃないか?」何を、という必要はなかった。二人ともちゃんと分かっている。
「『二年前』のことか」
「そうだ。お前のトラウマなのは分かっているが、これからデジモンに向き合っていくためにも僕は…」
「待て待て待て、みなまで言うな」加納が手を振って辻を制止した。
「ちゃんと話してやるさ。俺もそろそろ、自分の気持ちを整理していい頃だ」そう言って、加納はぽつりぽつりと語り始めた。

*****

「いやー、暑いね」秋穂は紫色のアイスキャンデーを舐めながらヒトミに話しかけた。ヒトミは薄いピンク色の自分のキャンデーを一生懸命舐めながらこくこくと頷く。
「わたしこんなアイス久しぶりに食べたよ。懐かしいね」秋穂は言った。今ではアイスを買う場所はスーパーマーケットかコンビニで、こういうアイスキャンデーを食べられる機会は滅多にない。この味を知ったのは家の近くにあった駄菓子屋でのことだ。50円を握りしめ、幼馴染の北館とよく棒についた小さな氷の塊を味わったものである。私たちの子ども時代って、そういうものが丁度息の根を止められた時期なのかもしれないなと秋穂はしみじみと思う。親達が「昔はどこもこうだったのよ」と懐かしみながら連れてきてくれたいくつかの店は、知らないうちになくなってしまった。その間に北館と私は〈十闘士〉に選ばれ、二十四時間営業のハンバーガーショップが会合の場所になった。時代に取り残されたようなさびれた青森の町にあの頃と同じような駄菓子屋を見つけて、柄にもなくはしゃいでヒトミを連れ込んだのだった。
「私はこういうアイス食べるの、初めて」舌を休ませながらヒトミがぽつりと言った。
「うわー、ジェネレーションギャップってやつ? 」秋穂は笑う。「今のアイスの方が、よっぽど美味しいよね」
「でも、私はこれ、好き。父さんと母さんが小さい頃、こういうのを作ってくれたの」
へえ、と秋穂は思った。彼女はヒトミのことを調べていく中で彼女の両親のことやその友人であったという辻玲一の事情も知っていたが、あまり同情的にはなれなかった。事情がどうあれ、幼い子どもがいるのにデジモンを相手に夫婦で命を落とすようなことをしていた親や、その子を引き継いでバーみたいな劣悪な環境に住ませる友人がいい人間であるとは彼女には思えなかったのだ。しかし、辻玲一と会ってみるとどうも事情は違うらしい。彼はヒトミに普通の親が普通の子どもにする以上の愛情を注いでいるように見えたし、ヒトミの口からは両親が任務で家を空けていては到底育むことのできないほど多くの幸せな家庭の思い出を聞いた。その幸せと同じくらいの悲しみとトラウマを抱えているとはいえ、この小さく寡黙な女の子はそれなりに楽しく暮らしているらしい。
「ヒトミちゃんはさ、学校、好き?」
「好きだよ、友達だっている。みんなとちょっと話が合わないことはあるけどね」それはバーでの暮らしのせいで彼女が他の子より少しませているというだけのことだろうか、それとも彼女の〈選ばれし子ども〉としての因子によるものだろうか。
「じゃあ〈アイス・ナイン〉は?」
「大好き」ヒトミがにっこりと笑って言った。そしてその後、内緒だよと言うように口に手を当てて何か話そうとする。秋穂もがヒトミの頭の高さまでかがんで耳を傾けた。
「ホントはね、あまり好きじゃなかったの。一人で家にいるのが寂しかっただけ。あそこに来る人たちはみんな楽しそうなのに、玲一おじさんは悲しそうにしてるんだもの」
「でも今は好き?」
「うん。ミチルさんや聡さん、シュウくんが来るようになって、おじさんとっても楽しそうにしてるもの。それにギギモンやテイルモン−−」そこまで話してから、しまったと言うふうにヒトミは口に手を当てた。秋穂はにやりと笑う。
「大丈夫だよ。私もギギモンやテイルモンのこと、ちゃんと知ってるから。コレは玲一さんには内緒ね?」
ヒトミはびっくりして口に当てた手を離す。「おねえちゃんも〈選ばれし子ども〉なの?」
「そんなところかなー」秋穂は内緒だよ、と念押ししてから尋ねた。「ヒトミちゃんも知ってたんだ。自分が〈選ばれし子ども〉だってこと」ヒトミはこくんと頷く。とすると加納満が白状したのか、と秋穂は考えた。いくらなんでもヒトミの母親も〈選ばれし子ども〉であったために死んだと言うことは彼女は知らないだろうけど。
「そのことについて、どう思う? つまり、〈選ばれし子ども〉って言うのはいつか、無理やり戦わせられなきゃいけないんだけど」秋穂は真剣な面持ちで尋ねる。この質問に対する答えで彼女は自分の一連の件に対する態度を決めるつもりだった。もともとギギモンを手にかけるのは気が進まないし、ヒュプノスやデジモンが絡んで来たことでヒトミの生活はどうやら明るくなったらしい。ヒトミの答え次第ではギギモンのことは諦めよう。〈十闘士〉に対する背信行為だと言われても知ったことではなかった。それを言うなら北館だって同じことだ。彼がもうテイルモンに手を出す気が無いことを彼女はちゃんと知っていた。幼馴染相手に何か隠し事ができると彼は本気で思っているのだろうか。
「私、怖いよ」ヒトミが言った。「でも、戦いたい」
これは及第点とは言い難い回答だ。秋穂が言う。「ヒトミちゃん、嫌なことを無理にする必要なんてないんだよ。玲一さんやヒュプノスのお陰でヒトミちゃんが今幸せなのは分かる。でもその人達への恩返しなんてことは−−」
「ううん、違うの」彼女の言葉をヒトミが遮った。「私が戦いたいのは私のため。私は今、毎日がとっても楽しいの。お父さんやお母さんがいた頃と同じくらい。それを誰かに壊されたくない。〈アイス・ナイン〉にみんなが集まって、おじさんやみんなが楽しくしてるのを、私ずっと見てたいの」だから、戦う。
「そっか」自分の言葉への反応を気にするヒトミの視線を避け、秋穂はそれだけ言って立ち上がった。いつの間にか二人は家の前まで来ている。
「ヒトミちゃん、先入ってて」
「え?」
「いいから」彼女の有無を言わさぬ語調にヒトミは首を傾げながらも玄関を開けて家の中に引っ込んだ。

「あのさあ、私たちとってもいい気分だったのに。それを何? 盗み聞きでもしに来たわけ?」秋穂が家の前の通りの端から端まで響き渡る声で言った。その声に答えるようにどこからか黒い影が現れる。
「いや、お前らの話に興味なんてねえよ」
「じゃあ何の用? 意味わかんないんだけど」秋穂は怒りを露わにして目の前の影−−ダスクモンに言った。
「意味わかんねえのはこっちだ。お前一体どこから出てきたんだ? どう言うわけで連中につきまとってるんだよ」
「へえ」ダスクモンの問いに秋穂はせせら笑いで返す。「あんたも何もかも知ってるわけじゃないんだ。じゃあ教えてあげる」
彼女の左手にバーコードの渦が現れたのを見て今度はダスクモンが楽しそうに笑った。「そういうことかよ。だったらなおさら意味わかんねえ。お前が〈十闘士〉なら、さっさとギギモンを殺せばいいじゃねえか」
「気が変わったの」私だって、私達だって、自分の守りたいもののために戦うんだから。
「馬鹿馬鹿しい。お前らの考えはさっぱり分かんねえ」
「闇のスピリットの半分を持ってても、それが分かんないんじゃ〈十闘士〉失格ね」秋穂が手を前に伸ばした。「ユウくんの半身、返してもらうわ」

〈デジコード・スキャン〉

*****

「美嘉と絵里はどこに行ったんだ?」北館はユースホステルの談話室で、向かいに座っている真理に尋ねた。真理は夏だというのに薄手のカーディガンを上に羽織っていた。暑いなら脱げばいいのに、真理の額に浮かぶ汗を見て彼は思った。
「太宰に関する石碑巡りですって、夏目くんがいない時はあの二人も真面目に研究してくれるみたいね」午前中に班全員で太宰の生家を見学した後、夏目秀は今日の午後から高視達に会いに隣町の屋敷に行っている。ついて行きたがるのを拒絶された美嘉と絵里はおとなしく研究に没頭することにしたのだろう。もっとも、面倒な資料のまとめとレポートづくりは北館達に一任されたわけだが。
「真理はついていかなくて良かったのか?」北館が尋ねる。
「別に、あの子達とそんなに仲がいいわけでもないしね」
ふうん、と北館が言ったきり二人の間に気まずい沈黙が降りた。各々がメモを取る時のペンの音だけが響く。
「ねえ、北館くん」ふいに真理が言った。
「どうしたの?」
「北館くんは、泣きたくなる夜って無い?」
「え?」
「夜中に何でもないことで目が覚めて、普段ならそのまままた眠れるんだけど、どうしても目が冴えてしまう夜。そんな時、私は辛いことばっかり考えて泣いちゃうんだ。時間の流れが遅くなってもうすぐ空が白んでもいい時間のはずなのに、なぜかずっと暗いまんま。結局いつまでも続くかと思える時間の中で、それが終わるまでベッドの上で座って泣いてるの」
北館は黙った。真理はどちらかといえばクールで率直な物言いをし、実際的な考えをする印象があった。その長く黒い髪と美貌から周囲からは「冷たい美人」という評価を受けている。そんな彼女が、ふいにこんな弱さを告白したのは意外だった。慰める言葉があるだろうかと彼は思ったがやめた。慰めに意味はないだろう。
「僕は昼にそういう時がある」北館は語り出した。「そういう日は朝からもう駄目なんだ。目が覚めた時に今日は憂鬱な一日だってわかる。少しでも気分を晴らそうといろんなことはするよ。友達とわざと馬鹿騒ぎをしたり、ちょっといつもより高いものを食べたり、熱い風呂に浸かったりする。でも駄目だ。結局はベッドに横たわって、少しの光も目に入らないように腕を顔に乗っけて、一日じっとしているしかない。いろんなことを考えながらね」
「例えばどんなこと?」
「やらなきゃいけないのに出来ないこととか、自分がみんなの足を引っ張っていることかな」実際、〈スサノオ〉プログラムの凍結は彼を苦しめていた。〈十闘士〉の最大の敵であるアイツ−−ルーチェモンを倒すために長年の世代交代の中で彼らが作り出したのが〈スサノオ〉だった。その発動には十闘士全員のスピリットが力を最大限発揮できていることが必要とされる。しかし闇のスピリットの半身を奪われている北館はその力を半分も引き出すことができなかった。闇のスピリットがもともと強い力を持っているために、力を半分にされたと言っても日常の戦闘では秋穂に迷惑をかけることはない。しかしいざという時、ルーチェモンが復活した時に自分が足手まといになって世界が滅びる、なんてことになったらどうすればいいのだろう。そういうことを彼は昼日中によく考えた。
「そっか」真理は悲しそうに頷いた。「じゃあ昼は嫌いで、夜が好き?」
「そうかもね」彼は真理のように夜悩むことはない、闇のスピリットには夜は友達だ。
「私はどっちも嫌い、夜はずっと嫌いだし、昼も最近無理になった」
何と言ってやればいいのか悩む北館に真理はこんなこと話してごめんねと謝り、そしてあの微笑みを浮かべて言った。
「今日も最悪だと思ったんだけど、今こうして北館くんと話してて、結構幸せ」彼女は赤くなって俯いた。


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