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ID.4762
 
■投稿者:マダラマゼラン一号 
■投稿日:2017/08/07(月) 19:49
                [ 返信 ]


六月の龍が眠る街 第三章 前編
         
まえがきにかえて

先日投稿した三章を手違いで消去してしまったため、本日投稿する四章と同時に再投稿します。
申し訳ありません。三章をすでに読んでくれている方は返信の中にある「六月の龍が眠る街 第四章」に飛んでください。
また、今回から作者名義を変更しました。「マダラマゼラン一号」です。pixivやTwitterで使っているものと一本化する意図です。すでに投稿されている一章と二章は「くじら」名義なので混乱させるかと思いますが、どうかこれからもマダラマゼラン一号をよろしくお願いします。
それでは、「六月の龍が眠る街」をお楽しみください。

↓これまでの話はコチラ

第一章

第ニ章





「やあミチルちゃん、監視対象の様子はどうかね」
電話の向こうの四ノ倉正敏仙台支部長の甲高い声が加納満の耳を突いた。
「楽しそうですよ、この暑いのに」七月に入り、彼はひどい夏バテになっていた。重い食事はろくに喉を通らず、コンビニで買ううどんと、バー〈アイス・ナイン〉で辻玲一が作ってくれる夏野菜を使った一品料理だけで日々を食い繋いでいる有様だった。
「無事ならそれでいいが、監視任務なんだから本当はもっと詳細を報告しなければいけないんだよ」
「茂みに隠れて小学校のプール授業を覗けばいいんですか? そうじゃなくても最近地域のご婦人の目が厳しいんです」ヒトミは今、体育のプール授業の最中だった。子供達のはしゃぐ声が、ロリコン扱いされない程度にプールから距離をとった加納にも聞こえてくる。プールの外側は垣根で囲まれていて中はよく見えないが、辻が選んだのであろう飾り気のない水着にオレンジ色の水泳帽を被ったヒトミの姿がその隙間から見え隠れする。上を見上げると抜けるような青空の中に水泳授業が可能だということを知らせる白い旗がたなびいていた。昔の俺も教室の窓から見えるあの旗の色一つで一喜一憂したものだったな、と彼は思い出した。
「もうプールの季節か、あっついもんな、今年は」四ノ倉もうんうんと相槌をうった。
「もう少ししたら夏休みが始まるんで学校の周りをうろついて不審者扱いされることもなくなると思うんですけど」
「そうだな。夏休みになったらヒトミちゃんは友達と何処かに遊びに行ったりしないのか?」
「どうでしょう。辻はあの子を家から出したがりませんからね」辻の過保護ぶりには加納も辟易していた。あれではヒトミは友達と遊ぶのもままならないだろう。
「そんなのダメですよ!」電話の向こうから叫ぶ声が聞こえた。
「今のは千鶴ですか?」加納は四ノ倉に尋ねた。
「そうだよ。千鶴くん、オペレーティングルームで大声を出さないでくれ。ちょっと、おい、何してるんだ」
慌てたような四ノ倉の声がやがてプツッという音とともに途切れ、今度は千鶴の元気な声が聞こえてきた。
「ミチルさん、おはようございます!」
「おはよう千鶴ちゃん。まさか支部長の携帯電話の回線をジャックしたんじゃないよね?」
「支部長も悪いですよ。オペレーティングルームで私物の携帯電話を使用することは禁止されてるんだもの」
「私物の電話をジャックしたのか」加納は呆れた声をあげた。見るからにバカっぽい振る舞いのくせに、これで日本有数のエリートオペレータなのだから全く末恐ろしい。最近彼女の情熱はオペレーティング業を逸脱し、ハッキングへと向けられていた。
「それより、加納さん! 夏休みにヒトミちゃんをどこかに連れてってあげてください! 小学生の夏をなんの思い出もなしに終えるなんて可哀想すぎます!」
「俺の一存じゃ決められないよ」加納はたじたじになって言った。
「保護者さんを説得できるでしょ。 ミチルさん、ここ一ヶ月は毎晩毎晩あの人がやってるバーに行ってるじゃないですか」
「なんで俺の居場所を知ってるんだ?」
「オペレータは担当者の居場所を常に把握しておく必要がありますもの」千鶴は澄ましている。
「とにかく、ヒトミちゃんを大人の都合で寂しい目に合わせたらただじゃおきませんからね!」彼女がそう言った途端に再び電話が途切れ、四ノ倉の声が聞こえてきた。この人もハッカーとしては日本最高の男の一人だったなと加納は思い出す。
「まったく、特殊なブロックを施した私の回線を奪うとは、千鶴くんもなかなかやるね」そんなことより、と言って四ノ倉は話を切り出した。
「千鶴くんの話なんだが、私も反対ではないんだ。なんと言っても仙台は東北では一番の都市だからね」現代においては都市の格はそこに集まる情報の量で決まる。仙台も情報の集積地として東北の他都市とは比べ物にならない程の規模のネットワークが広がっている。つまりそれだけ、デジモンの発生率も高いということだ。
「監視対象の安全のためという理由なら保護者も承諾するだろう。この際だから、あの子を連れてどこか田舎の避暑地に行ったらどうだね? どうせ暇なんだろう?」
「どうせ暇ですよ」大学の友人とはすっかり疎遠になり、同業者と話をする機会もない。こうして毎日四ノ倉や千鶴と電話をし、バーに行くと辻や高視聡がいるという賑やかな生活は明久と咲が死んだ二年前以来かもしれないな、と彼は思った。「お盆には、明久先輩と咲さんの墓参りがありますけどね」どうせそれはヒトミ達も一緒だ。
「あの人達のお墓は青森だったか」加納がそうだと答えると四ノ倉はううむと考え込んだ後に言った。
「私の持ち家が青森にあるんだが、今は住む人がいなくて空き家になってるんだよ。そこを使っていいからみんなを連れて一ヶ月ほどゆっくりしてきたらどうだ。高視くんや彼の担当者も誘ってみてくれ」
「へえ、太っ腹っすね支部長。S級エージェントがいなくて仙台の平和は大丈夫ですか?」
「S級がいなくたって立派にやってる支部もたくさんあるよ、それにもうじき、〈シャッガイ〉も完成する」
「支部長、あれをまだ諦めてなかったんですか?」〈シャッガイ〉は四ノ倉が仙台に来る前から研究チームの中心として開発を進めている対デジモンプログラムで、〈ユゴス〉をはじめとする従来のプログラムとは比べ物にならない規模を持つ。ネットワーク上の広範囲のデジモンを吸い寄せ一度にデリートするというもので、実現できればこれほど便利なものはないが大規模ゆえに既存のネットワークに大きな損傷を与えると考えられており、上層部は開発に消極的だった。
「諦めるもんか、あれは私の悲願だ。まあその話はいい、一週間程度で手配をする。電気を引いていくつかの家電も送っておくから、監視対象やその保護者に話を通しておくといいよ」
「分かりました。しかし随分羽振りがいいですね」
「〈選ばれし子ども〉は本部の肝いりの計画だからね。それを口実にすれば金はいくらでも出てくるよ」
「国民の税金ですよ」
「構わないさ、我々はそもそも存在を知られていないわけだからね。日頃の働きに感謝はされないが、批判もされないってわけさ」
「分かりました。それじゃあまた電話します」
加納は浮かない顔をしながら電話を切った。先日の辻との話の中で、いざという時になったら組織の計画よりもヒトミの安全を優先すると宣言したのだ。そのことに後悔は微塵もないが、支部長や組織に対する後ろめたさはあった。
ふう、と息をついた彼の肩を誰かが叩いた。
「なんです?」と加納が振り返ると青い制服を着た警察官が彼を睨んでいた。
「何してるんだ、近くのご婦人が怪しい男がいるというから来てみたんだが、さっきから見ていれば十分もずっと小学生のプールをのぞいてるじゃないか」彼は言った。
電話をしながら無意識にずっと目をプールへと向けていたのだ。マズったなと加納は思った。
「別に怪しいものじゃありませんよ、公務員です公務員」
「身分証明書を見せてみろ」
加納は言葉に詰まった。免許は持っていないし、秘密の組織であるヒュプノスの隊員証を見せたところで相手にもされないだろう。
「やめませんか? お互いに国民の税金で賄われてる勤務時間を無駄にするだけだと思うんですけど」
「何を言ってるんだ。訳のわからないことを言っていると署まで来てもらうぞ」
「行きましょう、行きましょう。そっちの方が多分話が早い」巡査一人では話にならない。もっと上の人間ならば四ノ倉を通して話をつけられるだろう。
(マスター、こいつ殺してやりましょうか?)
警察署に向かって歩き出した加納に耳元の風が語りかけた。加納も小声で答える。
(やめてくれクラビス、というかその言葉遣いは天使としてどうなんだ)
(でもマスターを変態呼ばわりするなんて!)
(いや、変態とは誰も言ってないぞ)
加納はため息をついて、ここに残ってヒトミを見張り続けるようクラビスエンジェモンに命じると歩く速度を速めた。

          *****

「それで? どうやって捕まらずに済んだんだ?」
僕は、カウンターに座って昼間の失敗談を語る加納に尋ねた。今日の〈アイス・ナイン〉はテーブル席に大声で馬鹿笑いをしている大学生風のカップルがいるだけで、あとは閑散としている。あのカップルに払う敬意は客に対するそれの中でも最低のものでいいと考えた僕は、先程からこうやって加納と話し込んでいたのだ。
「署に行ってから支部長に連絡したらあっという間に一番偉い人に話をつけてくれたよ。あのクソ巡査は自分が捕まえた相手の権力に怯えながら俺を解放したって寸法さ」
「一番偉い人、って警察署でか?」
「いや、日本でだ」
「警視総監に話をつけたのか! わざわざそこまでやる必要があったのか?」
「少なくとも、俺の鬱憤は晴らされたね」加納は手をひらひらさせながら言った。
「そもそも、怪しまれることをする方も悪いですよ」横から高視が口を挟んだ。彼もすっかりここの常連である。カクテルは頼まずにいつもビールを飲んでいた。
「大体この暑いのにジーンズなんか履いてうろついてたら人目をひくに決まってます」よくわからない偏見を披露した高視自身は半袖のワイシャツにスーツのズボンでまるっきりサラリーマンのクールビズという格好だ。加納もそう思ったのか言い返す。
「高視こそそんな格好で日中からうろついて、絶対にリストラされたお父さんだと思われてるぞ」
「いいんです。変態に間違われなければ」
「余計なお世話だ。というかそもそもお前はここで酒なんか飲んでていいのか、秀の護衛任務はどうしたんだよ」
高視は肩をすくめた。「今夜は学校の友達とカラオケですって。すぐ近くのカラオケボックスですし、テイルモンも付いてますから問題ないですよ」僕は夏目秀と二度目にあった時に紹介された白い猫のようなデジモンのことを思い出した。ギギモンと大して変わらない大きさなのに比べ物にならないほどの成長を重ねて来たと言うその猫は、ある程度のデジモンなら高視の手を借りることなく倒せると言うことだった。夏目秀にはよく懐いており、高視によると最近は友人というより恋人のつもりでいるらしい。
「へえ、引っ越して来てすぐに友達か、人好きしそうだもんなあいつ」加納が頷きながら言う。
「あの顔なら女の子にももてるんだろう」僕もグラスを拭く手を止めて口を挟んだ。
「本人は否定してますけど、まあもてるでしょうね。島根でもバレンタインデーなんかの時には大変でしたよ」高視が笑って言った。
「彼、部活とかはやってるのか?」
「テニス部ですよ、いかにももてる男のやることって感じでしょう。腕前はそこそこなんですけど、そんなもの女の子たちにとっては関係ないですしね」
「自分達より一回りも下のオトコを羨むのもいいけどさ」夏目秀の話で盛り上がる僕と高視に加納が言った。「今日は話があるんだ」
そうして彼はヒュプノスの仙台支部長の持ち家だという青森の屋敷で夏を過ごすことを提案した。今はもう住人はいないそうだが、「屋敷」と言う表現は決して冗談ではないらしい。もとは江戸時代から戦後まで続いていた高利貸しを営む名家の邸宅だったらしく、近くには太宰治の生家もあると言う話だった。
「いいな、僕は賛成だ」と言うと加納は驚いた顔でこっちを見てきた。
「あんたは反対すると思ってたけどな、ヒトミちゃんを家から出したくないんだろ?」
「僕だってヒトミが楽しめることならできるよう努力してるよ。この店でヒトミの友達の誕生パーティーをやったことだってある」僕は胸を張って言った。
「バーでそんなことして、大丈夫でした?」高視が恐る恐るといった感じで尋ねた。
「翌日その子の親が怒鳴り込んできてな、PTA会でしばらく問題になった」僕の答えに二人は力なく苦笑した。
「私も秀に相談してみます。テニス部の合宿で忙しいかもですけれど」高視が言う。
「自分よりずっと年上の男ばかりで、ヒトミちゃん退屈しませんかね?」
「さあ、どうかな」僕は後ろの事務室の扉からこっそりと店を覗く二組の眼に尋ねた。「ヒトミ、聞いてるんだろ。そういうことでいいよな?」少しおいて、向こう側からコンコンと二回扉が叩かれた。
「イエスの合図だ」僕は言った。「ギギモンもいるし、大丈夫さ」
後ろの大学生が酔っ払っていつしか喧嘩を始めていた。女がグラスを男に投げつける。グラスが割れる音が響いたが、僕は箒より先にアイスピックを手に取った。後ろでまだ隠れて店を眺めている一匹の龍と一人の少女に悪影響を与えるような客には退散いただくとしよう。

          *****

窓をこんなにも大きく開け放っているのに吹き付ける風は蒸し暑く、教室はさっぱり涼しくなかった。夏の課外学習のために特別に分けられた班の席に着いた北館祐は体から吹き出す汗に顔をしかめる。隣の班では友人の康太が、温暖化が進んだ現在に高校の教室に冷房を設置しないのは一種の虐待だというようなことを喚いている。
大して知りもしない連中と班を組まされ、夏休みの一日を彼らとのしょうもないインタビューに費やさなくてはいけない課外学習を北館も他の多くの生徒と同じように嫌っていた。しかし、と彼は首を振る。やる気を出さないといけないだろうな、なぜなら−−。
「ねえねえ、秀くんはどこを調べに行きたい?」班員の女子の一人である美嘉の甲高い声が北館の思考を破った。彼女がそばかすの浮いた顔に笑みを浮かべて言葉を向けたのは今学年中で話題の転校生、フランス人の母から受け継いだ金の髪に青い目をもつ〈選ばれし子ども〉、夏目秀だった。
思わぬところで〈選ばれし子ども〉との距離を縮めることができたのは北館にとって幸運なことだった。彼のパートナーデジモンを殺してヒュプノスの計画を阻止するためには北館か相棒の一条秋穂のどちらかが彼に接触しなければいけなかったが、こうして偶然を理由に近づく方がずっと違和感が少なくていい。それに、幼馴染の秋穂を学年中の女子の視線の中心に放り込むのも気が進まなかった。課外学習のメンバーと仲良くする必要なんて感じていなかったが、今回ばかりはなけなしの愛想の良さをふり絞らなくてはいけないだろう。
「いや、俺はどこでもいいよ」秀の何気無い受け答えにさえ質問を飛ばした美嘉はうっとりとした顔をしている。女子三人、男は北館と秀だけの班で北館は全く肩身が狭かった。
「そうよ美嘉、ステファンは仙台に引っ越して来たばっかりなんだから。むしろ私達がいいところを教えてあげましょう」美嘉の隣にいた絵里がお下げ髪を揺らしながら言った。彼女の発した聞き慣れない呼称に北館は思わず声を上げる。
「ステファン?」
「どうしたの、北館君」まるで今彼がそこにいることに気づいたかのような声で絵里が言った。「秀くんのことだよ」
「いやいや、分かんないって、そもそも何でステファンなんだよ」北館の質問は全く無視され、美嘉と絵里は秀との会話に戻った。
「家での愛称だったんだって。フランス人のお母さんは秀って名前に違和感があって、少し語感が似てるステファンって名前で呼んでたらしいよ」二人の代わりに質問に答えたのはもう一人の女子、丁度北館の真向かいにいる三浦真理だった。
「そうなんだ」北館はなるべく気さくに答えようとしたが、口調には硬さが混じった。去年の春に彼女に打ち明けた自分の思いを断られてから、まともに目を見て彼女と話すのは一年ぶりに近い。あの時より髪をいくらか伸ばしていたが、色白な顔に切れ長の眉が切り込んだ端正な顔立ちと、深い黒の目に宿った冷ややかな光はそのままだ。彼は慌てて目をそらしたが、彼女が自分の隣の夏目に向ける目に気になり何度か盗み見るように彼女の目を見た。その目は北館に向けられる時と見た目に対して違いはないように思えたが、彼は不安を隠せなかった。何で彼女は夏目のあだ名の由来なんか知っているのだろう?
「ユウは七月の末は空いてる?」
「え?」
「課外学習の日程、二泊三日で青森でどうかな」彼が顔を上げると夏目がにっこりと笑って尋ねて来た。ほとんど初対面の相手を呼び捨てで呼んだというのに全く嫌味がない。
「ごめん、ぼうっとしてたよ。予定は問題ないけど、仙台のいいところを紹介してもらうんじゃなかったのか?」彼の質問に美嘉と絵里が余計な話を蒸し返すなと言わんばかりにきつい目を向けた。彼女たちとしては夏目との泊まりがけの旅行は他の何を差し置いても行きたいものなのだろう。しかし二泊三日とは、北館が情けない未練を抱えて逡巡している間に課外学習の話し合いは思わぬ方向に進んでいたらしい。
「青森まで行って、何を調べるんだ?」
「太宰治の生家を見たいんだ。好きなんだよ」こんな勝ち組が太宰なんか読むのか、北館は思った。中学の頃、いじめられひどい鬱屈を抱えながら太宰に入れ込んでいた身としては彼の趣味を素直には受け入れ難かった。そんな北館の気持ちなどいざ知らず女子達は夏目の知的な側面にうっとりしている。
「太宰ね、昔よく読んだな」北館は自分の方が読書趣味に関しては上手であることを示したくて思わずそう言ってしまった。その言葉に夏目が少し目を大きくする。
「そうなんだ。小説はよく読むの?」
「う、うん」夏目が予想外に話に食いついて来たので彼はしどろもどろになってしまった。
「北館くん、いつも本読んでるものね、図書室の端っこにある分厚いやつ」助け舟を入れたのは真理だった。北館は虚を疲れたように彼女の方を振り返ったがすぐに夏目に目を戻す。色々な感情がないまぜになった頭の中を見せまいとするかのように彼はその場を取り繕った。
「図書室の端っこっていうと、世界文学全集のことかな。スタンダールが大好きなんだ。最近はフランスの現代作家の作品をよく読んでる。マンディアルグとかユルスナールとか、夏目君も今度教えてくれよ」上出来だ。彼は思った。ほとんど完璧な回答だ、ノーベル文学賞をあげたいくらいだ。しかし彼の長広舌は退屈そうにそれを聞いていた二人の女子によってあっさりと流されてしまった。
「それじゃあ決まり」美嘉が言った。絵里も頷いて続ける。
「青森県で二泊三日の研究旅行。ステファンとお泊りなんて楽しみー!」

「キャーキャー煩いのよ。ひどいそばかす面とダサいおさげのくせに、ステファンを狙おうだなんて大層な御考えを持つ前に鏡を見て来たら? そもそもそのあだ名を気安く使うんじゃないわよ」

突如きつい少女のような声が聞こえ、北館の班に沈黙が降りた。真理は目をきょろきょろと動かし、夏目の顔は無理に作ったような笑みを貼り付けたまま凍りついていた。
北館だけが平静なまま言った。「みんなどうしたの? 急に黙っちゃって」
「いや、声が−−」美嘉の言葉を彼は遮る。
「声? そんなもの聞こえなかったけどなあ。なあ、夏目君?」
その言葉に夏目ははっとしたように瞬きを何度かすると前と同じような完璧な笑顔を浮かべて言った。
「ああ、俺もなにも聞こえなかったけど」
「私もなにも聞こえなかった。二人して空耳でも聞いたんじゃない?」真理もそう言ったので美嘉と絵里は狐につままれたような顔になった。
もちろん空耳なわけがない、北館だってちゃんと声を聞いていた。おそらくは先程から彼の隣の夏目の机の下で退屈そうに気配を出したり引っ込めたりしている夏目のパートナーデジモン−−秋穂はテイルモンだと言っていた−−が言ったのだろう。その声は甘酸っぱい青春の駆け引きに囚われていた北館の心を現実に引き戻した。二泊三日の旅行はまたとないチャンスだ。闇の闘士が〈選ばれし子ども〉にとても近しいところまで接近していることに、あのグランクワガーモンを使うエージェントもまだ気づいていまい。勘付かれないうちに、出来れば夏が過ぎてしまう前に、今の高飛車な声の持ち主を手にかけてしまわなければいけない。彼はまたため息をついた。
その時、校舎が大きく揺れた。

         *****

「ギギモンとヒトミちゃんを事務室から一歩も出すんじゃない。あの銃をすぐに撃てるようにしておけ」加納はそう言って電話を切った。先ほど学校から帰って来たばかりで、小さな額に汗を浮かべたヒトミを事務室に放り込む。ギギモンはいつになく気が立っていて、部屋に入れようとした僕に三度もひどく噛み付き、一時は普段はよく懐いているヒトミにも唸り声をあげたほどだった。
家の電子機器は殆ど不調に陥っていた。ただ一つ、この店を開くずっと前からビルに置いてある原始的な扇風機だけが唸りを上げて空気を動かし続けている。加納の口ぶりだと市内各所でこういうことが起きているらしかったが、そもそもテレビも砂嵐以外のなにもうつさないため詳しいことは分からなかった。
ヒトミに危機が迫っているのだろうか、僕はバーカウンターに置いた拳銃を手に取る。明久が死んだ後、遺言に従い彼らの家を整理した時にこれを見つけた。加納によるとこれはかつてヒュプノスが製作した対サイバー生物銃でデジモンだけに効果を及ぼすというものらしいが、その製作にかかる莫大な費用と、そもそも人間が直接デジモンと戦うほど追い詰められたら銃などあっても意味がないという理由から開発中止になったということだった。しかしこれだけが今の僕には頼りだ。銃を持ち、明久の手の形に合うように削られた握りに手を馴染ませた。
冷蔵庫が動かないなら店で使う氷も溶けてしまうだろう。どうせならということでヒトミとギギモンを落ち着けるためにかき氷を作った。シロップの味を聞くために事務室のドアを開けるとヒトミは喜んでメロンがいいと言ったが、ギギモンの方は眠ってしまっていた。
「さっきからずっとこうなんだよ」ヒトミは緑色のかき氷を口に運びながら言った。「いつもはこんな風にいびきもかかずに寝ることないのにな」
僕も不安になって、眠りこけたギギモンにそっと手を触れた。いつもはこうするだけで飛び起きて手に噛み付くのだが、今日は微動だにしない。
その体の黒い三角形の模様が少し熱を持っているように思えた。

          *****

「千鶴ちゃん、状況の報告を頼む」〈アイス・ナイン〉の入っているビルの屋上に立ち。加納は緊張した声で言った。街のあちこちから交通事故の煙が立ち上るのが見える。信号もお釈迦になってしまったのだ。
「市内全域に渡って成熟期デジモンが多数リアライズ、そのほとんどがサイクロモンです」千鶴にもいつものおちゃらけた様子はなく、その声は真剣そのものだった。
「同時に電子機器に異常が発生。ヒュプノスの機器と回線のブロックは破られていないようですが、被害は甚大です」
「只の同時多発的なリアライズじゃないってことだな」加納はオペレータとの通話にいつもの端末ではなく本部支給のイヤーモニターを使用していた。非常時にはこうして両手を空けていないととても事態についていけない。
「はい、電子機器の異常、出現した群れが一つの種の占有状態にあるなどの状況を複合的に判断し、先ほど仙台市に中規模の〈デジタルハザード〉が起こったと新宿の本部が宣言しました」
「その言葉を聞くのも二年ぶりだな」加納は言った。「俺に対してはどのような指令が出ている?」
「S級エージェントのミチルさんと高視さんに対しては、〈選ばれし子ども〉の護衛を最優先としながらも、遊撃隊として部隊で行動する他のエージェントをできる範囲で支援するようにという指令が出ています」
「オーケー、通信を切る必要はないな?」
「今日の私はミチルさん専属オペレータですよ。ずっと見ておいてあげます」千鶴が自身溢れる声で言った。
「よし、始めるぞ。 半径五キロメートル以内には他のエージェントを配置しなくていいって四ノ倉のおっさんに伝えてくれ。邪魔だ」そう言い終わるなり彼は叫んだ。「クラビス!」
「私なんかよりいつものトループモンがいいんじゃないですか?」クラビスエンジェモンの皮肉っぽい声が聞こえた。
「拗ねてる場合かよ、話は聞いてただろ。俺たちが立ってるこのビルから半径五キロが今日の狩場だ。心配することはないと思うけど、サイクロモンは遠距離攻撃も備えているし力も強い、気をつけろよ」
「分かりました。もし私がいない時にヒトミさんに何かあった場合の備えは?」
「しばらくは凌ぐさ。それにお前もサイクロモンを狩るのにそんな長い時間はいらないだろ」
「仰る通りですよ、マスター」そういうとクラビスエンジェモンは光となって加納の前から消えた。それを見送ってから彼はまたオペレータに問いかける。
「千鶴ちゃん、〈台風の目〉の場所は分かったかい?」
「今解析中です」
単体の力でリアライズできるほど力を持ったデジモンはそういない。大抵のデジモンはリアルワールドからの何らかの働きかけ−−例えば〈選ばれし子ども〉の持つ因子−−からの影響を受けリアライズを果たす。ところがそのデジモンが大きな力を持っていた時、稀にそいつの周りの群れごとまとめてリアルワールドに転送されてしまうことがあるのだ。これが〈デジタルハザード〉だ。そしてその原因となった大きな力を持つデジモンをヒュプノスでは〈台風の目〉と呼んでいる。デジタルハザードで発生したデジモンの群れは皆この〈目〉の力に寄りかかってリアライズしているに過ぎないため、〈目〉さえ倒すことができれば他のデジモンは実体化に必要なエネルギーを賄いきれず勝手に自滅するという寸法だった。
「成熟期を何十体も呼ぶんだ。〈目〉は上位の完全体か究極体のはずだよ。そんなに見つけるのに手間取るのか?」加納はじれったそうに尋ねた。
「黙っててください! …これかしら」千鶴が考え込むように言う。
「いたのか?」
「周りのサイクロモンよりも強い力を持つ完全体クラスを確認しました。しかしこのレベルの〈デジタルハザード〉を引き起こすには力が足りないような…」
「そんなことは倒してみてからじゃないと分からないさ、場所はどこだ?」
「光台高校です」千鶴が気遣わしげに言った。「高校生達の避難、うまくいってるかしら」
「光台高校?」加納はにやりと笑った。「あそこなら俺が行く必要もないな、避難も問題ないだろう」
光台高校は夏目秀が通う学校だ。高視が昼休みの会社員みたいな格好であたふたしているに違いない。

          *****

果たして高視聡は昼休みの会社員みたいな格好であたふたしていた。〈デジタルハザード〉の対応は初めてだ。最も、全国にこれを経験した支部がいくつあると言うのだろう。仙台支部のチームが二年前に既に一度ハザードを経験しているのは心強かった。高校生の避難は初動が少し遅れてしまったが、どう言うわけか高校生達は勝手に規則正しく並んで高校から出て来てくれた。日頃の教育の賜物だろうか。他のヒュプノス職員と一緒に逃げ遅れた子どもがいないか確認しながら彼は自分の担当のオペレータである鳥谷に話しかけた。
「〈台風の目〉が光台にいるんですね?」
「確実ではないですが、そうと思しきデジモンはいます」事務的な声の鳥谷が言った。「おそらく高校構内です。〈選ばれし子ども〉の安全を確認してから直ちに掃討を開始してください。光台周辺のサイクロモンは他のエージェントが撃破していますが、いつまで持つかわかりません」ハザードの処理にA級、B級はおろか成長期しか連れあるくことのできないC級のエージェントまで駆り出されていると言う話だった。出張中の余所者とはいえ、S級エージェントがのんびりしている暇はないのだろう。彼は高校生達の列に夏目秀の姿を探した。そんな彼のことを列の中の男子生徒が呼び止めた。
「お巡りさん! いない奴がいるんだ、校舎から出て来てないのかもしれない」そう言って来たのは筋肉質の体の大きな少年だ。ラグビー部か何かなのだろうかと高視は思った。
「落ち着いて、すぐに助けに向かうよ、帰って来てないのは一人だけかい?」彼は努めて落ち着いた口調で尋ねた。
「ああ、俺の友達で、北館ってやつだ」彼はそう言って行方不明の人物を描写した。それをメモに書き留めてオペレータに話しかける。
「鳥谷さん、今の聞いてた?」
「はい、すぐに近辺のエージェントに共有します」
「ありがとう」
「それと、もう一つ行方不明の報告が来ています。二年生の女子生徒で名前は−−」鳥谷が話す情報も彼はメモした。
その時列の後方から悲鳴に近い声が聞こえた。
「秀くんがいないわ!」
高視は仰天して振り返ると、噛み付かんばかりの勢いで叫び声をあげた女子生徒に詰め寄った。
「秀くんって夏目秀か?」
「う、うん」女子生徒はたじろぎながら答えた。
「金の髪に碧い眼で、腹立つくらいに男前の?」
「知り合いなの?」
「くそっ!」高視は悪態をついて鳥谷を呼び出す。「鳥谷さん、聞いてたな? 私もすぐに校舎に行く」そう言いながら彼はもう駆け出していた。
校舎に向かって走って行く途中、高校生の列から飛び出してこちらの方に向かってくる少女が見えた。近くにいたヒュプノス職員の呼びかけを無視し走っている。見ると、前髪を切り揃え、首のヘッドフォンを除けば地味な雰囲気の眼鏡の少女だ。彼女を止めようかと思ったが、これだけヒュプノス職員がいれば問題ないと思って気にしないことにした。
彼女とすれ違う時、耳元で鈴のような響きの良い声が聞こえた。
「怪我人がいないのは私たちのおかげ、ユウくんに何かしたら殺してやるから」
高視は思わず立ち止まり、振り返る。あの地味な少女から今の美しい声が放たれたのだろうか。しかしそんなことは今はどうでも良い、高視は再び校舎に向けて走り出した。
「行くぞ、グラン!」
     

ID.4763
 
■投稿者:マダラマゼラン一号 
■投稿日:2017/08/07(月) 19:50


六月の龍が眠る街 第三章 後編
「夏目も逃げたほうがいいんじゃないか?」
「ユウこそ、ぐずぐず何してるんだ?」
「忘れ物をしたんだよ」
「俺もだ」
北館祐は今日何度目かのため息をついた。さっきからずっとこの調子だ。生徒達の避難と警護を秋穂に任せ、自分は校内のデジモンをさっさと倒すと豪語したものの、人に見られていてはレーベモンになれない。一般人なら後で無理にでも言い訳できるかもしれないが相手は夏目秀、ヒュプノスの保護下にある〈選ばれし子ども〉だ。北館のスピリット・エヴォリューションを見た瞬間に全てを理解しヒュプノスにご注進に及ぶに違いない。
「これじゃあ埒があかないな、もう少し粘って、本当にヤバそうになったら逃げるよ」北館は言った。夏目がここにいるならそう遅くないうちにあのグランクワガーモンを連れたエージェントが来るだろう。彼が来るまで夏目に何事もないよう見ておいて、その後で無邪気な顔で一緒に保護されようと北館は決めた。残念だがデジモンはヒュプノスに譲るしかないだろう。
その時夏目の携帯電話が鳴った。大体の電話が不通になっているこの状況で何事もなく繋がるというのはヒュプノスがらみの電話だろうなと北館は思った。夏目もほっとしたような顔で電話に出る。
「もしもし、高視さん? 繋がって良かったよ。うん、大丈夫さ」するとあのエージェントは高視というのか、夏目はしばらく安心しきった様子で話していたが相手の言葉を聞き少し顔を硬くした。
「ああ、その話は後で…。うん、そうなんだ。友達が近くにいるんだよ」北館は笑いをこらえる。大方デジモンがらみの話になったに違いない。話してくれてもいいんだよ、と言ってやりたい気持ちを抑える。
「ああ、その北館祐だよ。二人とも何事もないよ」夏目は北館の方を向いて言った。
「俺たち二人に捜索命令が出てたんだってさ」
「その電話、警察の人?」北館も白々しく尋ねる。
「うん、一緒に住んでるんだ。親代りさ」彼は両親から離れてこの街に来ているらしい。事情は知らなかったがエージェントと二人暮らしとは、後々のテイルモンデリートに伴う面倒のことを思い北館は顔をしかめた。夏目はもう通話に戻っている。
「うん、二年生の教室、二階の廊下にいるよ。分かった、大人しく待っておくよ。ちょっと、ねえ、高視さん?」夏目は携帯を下ろして顔を上げた。「切れちゃった」
「この騒ぎだし、回線も混雑してるんだろ。待ってろって言われたんだから待ってようぜ」
「うん、でも変な途切れ方だったんだ。切れたというより無理やり切られたみたいな−−」
その時、どこからかひどい地響きがした。

          *****

高視は画面の中央から見事に貫かれたスマートフォンを見てやれやれと首を振った。夏目との通話中の突然の襲撃、グランクワガーモンが体を突き飛ばしてくれなければ自分の頭もこのスマートフォンのようになっていただろう。
「…また会ったな」彼は目の前にいる黒い鎧の騎士に言った。鎧のあちこちに浮き出た気味の悪い目玉はまるで本当の目であるかのようにぎょろぎょろと動いている。二週間前、闇の闘士レーベモンと戦った時に現れたデジモンと同じだ。あの時は、こいつのせいでレーベモンを取り逃がしてしまった。
「グラン、こいつ知ってるデジモンか?」彼はパートナーに尋ねる。ヒュプノスのデータベースでは、こんなデジモンを見たことがなかった。
「さあ、俺にも分からん」先程から姿を現しているグランクワガーモンはそう言って唸った。
「二年前からあちこちで頑張ってるのにまだ知られてないのか? ひどい職務怠慢だな」騎士がくぐもった声で言った。気味の悪いその声からは、男女の別を持たないデジモンにもある程度現れるはずの性別的特徴さえ感じることができなかった。
「覚えておきな、俺はダスクモン。〈十闘士〉の一角で、闇のスピリットを受け継ぐものだ」
高視は眉を寄せる。「闇の闘士はレーベモンのはずだ」
「あんなのは紛い物さ。俺の方がホンモノ。そうお仲間に伝えるんだな」鎧が耳障りな声で笑った。「もっとも、生きて帰れたらの話だけどよ」
ダスクモンはそう言うと目で捉えることのできないほどの速さで高視に飛びかかる。しかしそのくらいは彼も予測していた。グランクワガーモンもほぼ同時にダスクモンに向かって飛び立つ。
〈エアオーベルング〉
〈ディメンション・シザー〉
ダスクモンの紅い剣とグランクワガーモンの黒いアゴが火花をあげてぶつかり合う。鍔迫り合いになるように見えたが先にグランクワガーモンが剣を受け流して距離をとった。
「サトル、まともにあいつの剣は受けられないよ。相手のパワーを吸収する系のアレだ」
相手のパワーを吸収する系のアレってなんだよ、と高視は言いかけたがやめた。デジモンの規格外な技にはとうに慣れている。相手のパワーを吸収するくらいありふれたことなのだろう。「距離をとって上手いことやってくれ」そんなことを考えながら彼は投げやりな指示を飛ばす。
「オーケー」グランクワガーモンは顎の間に電気の球を形作り幾つも飛ばす。だが騎士は眩しい光で彩られたその弾幕を難なく交わした。
「速いな…」
「そろそろ終わりにしようぜ」ダスクモンが言った。
〈ガイストアーベント〉
彼がそう唱えると彼の鎧についた目玉がぐるぐると回り出した。高視は眉を寄せてそれに目をやる。すると目は、まるでそれが一つの細胞であるかのように分裂し始めた。ダスクモンのくぐもった声が頭の裏側で響く。
「分かるか? 一個の目玉が二倍二倍で増えていくんだ。代わりに数えてやるよ。一、二、四、八、一六…」
その声に同調するように目玉は増えていき、やがてダスクモンの体を埋め尽くした。まだ彼の声が頭の中から聞こえてくる。
「一二八、二五六、五一二、一〇二四…」
「サトル! その目玉を見ちゃダメだ!」自身もふらふらになっているグランクワガーモンがそう叫んだ時にはもう遅かった。高視は少しづつ意識を失っていった。
知ってるよグラン、目玉を見たやつに催眠術をかける系のアレだろう? 私だって分かるんだぜ…。

          *****

「僕のことはいいから! 夏目は先に逃げろって!」北館は飛んでくる細かいコンクリートの破片を足で払って言った。
「ユウこそあのバケモノに食われちまうよ! 先に逃げて!」こぶし大の瓦礫をかわして夏目が答える。
向こうも僕を逃してテイルモンでなんとかする気なのだろうと北館は考えた。しかし目の前のデジモン−−トリケラモンの廊下に収まりきらないほどの巨体は成熟期にどうにかなる相手ではないだろう。どういうわけか高視が来ない以上、ここは自分がなんとかしなくてはいけない。
トリケラモンが右前足をのっそりと持ち上げ、床に叩きつけた。すでにその巨体を支えかねていた床が音を立てて割れる。一階に落下していく中で北館は夏目の腕を掴んだ。離すもんか、それが誰であれぼくは守らなきゃいけない。

          *****

「夏目! 大丈夫か!」目を覚ました北館は右手に掴んだ腕をゆすぶった。
「なんとかね…。でも」夏目は言う。「足が動かせない、瓦礫に挟まって」
「今助けてやる」
「間に合わない! ユウが逃げろ」夏目は北館の向こうに顎をしゃくる。北館が振り向くとトリケラモンの巨体がゆっくりとこちらに向かってきていた。
北館はため息をついて立ち上がった。
「ちょっと! まさか本気で置いてくつもりじゃないでしょうね!」高飛車な声がどこからか聞こえる。
「そんなことしやしないさ、テイルモン」
「じゃあさっさとステファンを…なんで私の名前を知ってるわけ?」きょとんとした感じの声に北館は微笑する。彼はトリケラモンの前に立ちふさがり、後ろにいる夏目に語りかけた。
「なあ夏目、君とはまだ知り合って少ししか経っていない。最初は女の子にモテて気にくわないやつだと思ったし、勝ち組の癖に太宰なんか読んでるのは今でも気に入らないね」
でも。
「何故か君とは友達になれた気がしてるんだ。このわずかな時間で」
「なんだそれ、遺言かよ」夏目は問いかけた後に思い直したように首を振って答える。「俺もだ」
「ぼくが今からすることを見たら、多分君とぼくは敵同士になる。だけどさ」北館の左手にバーコード状の渦が浮かぶ。
「これから見ることをを忘れて友達のままでいてくれとは言わないからさ」彼は左のポケットから〈ディースキャナ〉を取り出した。
「せめて、ぼくと言う友達がいたことも、忘れないでくれないか」
「記憶力には自信があるんだ」夏目が胸を張って言うので北館は思わず振り返った。
「だから、安心しろ」
北館は頷いてもう一度前を向き、両手をゆっくりと交差させる。
〈デジコード・スキャン〉

          *****

空に向かって散ったトリケラモンのデータが晴れると、そこから人影がつかつかとレーベモンの方に歩いてきた。レーベモンはその影を見て槍を構える。
「また会えて嬉しいよ」
「俺もだ」ダスクモンは剣を構えるそぶりを見せない。
「こんなところで何してる? まさか今回の騒ぎは…」
「俺じゃねえよ、俺だって被害者だ。さっきのデカブツが頭の上から降ってきたせいで〈ヒュプノス〉のエージェントを殺し損なっちまった」その言葉に夏目が顔を強張らせる。
「高視さんに何をした!」
「まだ、何もしてねえよ。ここらの瓦礫に埋もれておねんねしてるんじゃねえか?」夏目に今気づいたようにダスクモンは退屈そうな声を出しレーベモンに言った。「学校の周りにはヒュプノスがわんさかいるし、そんなお荷物を抱えたお前と戦ってもつまんねえしな。今日はここまでってことにするかあ」
そう言うなりダスクモンは黒い影となって消えた。レーベモンもあとを追おうとしたが、すぐに思い直し後ろの夏目の方を向き、瓦礫を持ち上げてやった。
「ありがとう、ユウ」夏目は苦しそうに立ち上がり、埃を払った。
「今はレーベモンだ」
「高視さんを探すのを手伝ってくれないか。あ、でも…」ヒュプノスと十闘士が犬猿の仲であることに思い当たったのか彼は口をつぐんだ。レーベモンは微笑する。
「今は下らない意地の張り合いはナシだ、探すぞ。そこのテイルモンも出てきて手伝え」
「私に命令するんじゃないわよ!」どこから出てきたのか白い猫型のデジモンが夏目の頭に飛び乗った。
「おい、助けてもらったんだ。礼こそすれ.そんな態度はないだろ」夏目がたしなめる。
「だってこいつ〈十闘士〉のレーベモンよ! 私を殺そうとしてるってやつじゃない」テイルモンはレーベモンに喚き散らした。
「大体あんたがさっさと逃げてれば私があのトリケラモンをちゃっちゃと倒してステファンもこんな危ない目には遭わなかったのよ」
「へえ、倒せたのか?」面白そうにレーベモンが言い返したので、テイルモンは言葉に詰まる。
「そ、そりゃあ一世代上の相手だけど…」
「そんなことより高視さんを探そう、手伝ってくれるよな、テイルモン?」夏目がそう言ったのでテイルモンはレーベモンを睨みつけながらもおとなしく引き下がり瓦礫をめくり始めた。
「なあ、ユウ」夏目がレーベモンに語りかける。
「どうした?」
「本当にテイルモンを殺そうとしてるのか?」
「そうしなければ夏目が戦いに巻き込まれるんだぞ。大義なんてない、ヒュプノスの都合のためだけの戦いだ」
「俺は戦いたい」夏目の言葉にレーベモンは顔を上げ、その顔をまじまじと見つめた。
「そんなこと、二度と言わないでくれるか。ぼく達十闘士だって、好きで戦ったり罪のないデジモンを殺してるわけじゃないんだ!」
レーベモンの強い語調に夏目はたじろぐ。
「この苦しみはもう誰にも味わって欲しくない。ヒュプノスがぼくらみたいに何か大きなものの都合のせいで戦う奴を増やそうって言うんなら、ぼくらがそれを止める」彼はそう言うとまた瓦礫をめくり始めた。その後ろ姿に夏目が言う。
「仕事の都合で両親と離れて、高視さんと二人暮らしだって言ったな。あれは嘘だ。二人は殺されたんだよ、デジモンに」
レーベモンは手を止めた。こんな話を聞きたくはなかったのに。
「その時は高視さんがかろうじて俺を救い出してくれた。そうじゃなかったら俺は死んでたろう。今日だって…」夏目は拳を握り締める。
「もう、守られてばかりは嫌なんだ」
「…そうか」レーベモンはそう言って瓦礫を一つめくった。その下で高視聡とそれに覆いかぶさって守るようにしているグランクワガーモンが幸せそうに寝息を立てていた。
「ボディーガードがこうなっちゃったら、大変だもんな」スピリットを解き、北館祐は言った。
北館と夏目はしばらく顔を見合わせると、同時に吹き出した。
「高視さんったら、何してるんだよ」
「こないだこのクワガタムシに殺されかけたかと思うと、情けなくなるね」
ひとしきり笑ったあとに、夏目が言った。
「ユウ、君の言うことが正しいのはわかってるけど、俺は戦わなくちゃいけない。取引だ。君の正体は黙っておくから」
「テイルモンは殺すなってか?」北館は笑った。「秘密協定、悪くないね」
「俺の方が立場は上だぜ」だから一つ条件を加えると夏目は言った。
「俺のことも名前で呼んでくれ」
北館は微笑した。「分かったよ、シュウ」
「とりあえず夏の青森行きだな」目を覚ました高視に保護され(長い間眠りこけていたことは黙っておくことにした)ヒュプノスの設営した野外テントで肩にタオルをかけられた夏目は言った。
「諦めてないのか」同じくタオルをかけられ、ヒュプノス職員相手に居心地悪そうにしている北館が言う。「学校があの有様じゃあ課外学習どころじゃないだろ」歴史ある校舎は崩れ、騒ぎの収集のためにしばらくは休校、生徒たちにとっては夏休みが一週間ほど増える結果となった。
「いや、俺は行くぞ」夏目が宣誓するように言った。
「二人とも、大丈夫だった!?」整列させられていた女子達が二人に、と言うか夏目に駆け寄る。その後ろの方で秋穂が北館に目配せした。彼もわざとらしくパチパチとまばたきをして答えた。
夏目に群がる女子達を押しのけてやってきた康太に北館は酷く叱られた。
「北館! お前なんで残ったりしたんだよ! それにお前もだ、転校生」康太は夏目の方を向いて言った。
「詳しいことは省くけどぼくが悪いんだ。シュウをあまり怒らないでやってくれ」北館に宥められ康太が目を丸くする。
「なんだお前ら、なんか−−」
「急に仲良くなったみたいね」同じく女子の群れをくぐり抜けてやってきた三浦真理が康太の言葉を引き継いだ。そしてふふっと微笑む。それは、北館が彼女に一目惚れしたときと同じ微笑みだった。
「どうしたの」北館は思わず尋ねた。
「いや、名前が似ててコンビみたいだなって、ユウくんとシュウくん」
コンビは一緒のタイミングで肩をすくめた。

      *****

「お疲れ様だったね。ミチルちゃん」
「支部長もお疲れ様っす」加納は電話の向こうの四ノ倉に言った。
「いやいや、私はこれからが大仕事だよ。ここまで大っぴらにやられちゃデジモンの存在をひた隠しにするのも大変だ」
「いつも上手くやってるじゃないですか、お願いしますよ」
「おうよ。ところで、高視くんはどうしてる?」
「ああ…」加納は隣の高視を盗み見た。未知の敵に敗れた上に「台風の目」であったトリケラモンを十闘士に先に倒されてしまった(これはそれを隠れて見ていたという夏目秀の証言によるものだ)ために高視はとてつもなく落ち込んでいた。本人としては夏目を危険に晒してしまったのが一番応えているようだったが、そんな電話を彼の隣でするわけにもいかない。四ノ倉には、まあ大丈夫っすよと適当な返事をした。
「それより、今回の〈台風の目〉についてなんですけど」加納が切り出すと四ノ倉もうんうんと相槌を打って言った。
「千鶴くんの所感は正しかったみたいだね。あのトリケラモンには今回のような規模の〈デジタルハザード〉を起こす力はない。リアルワールド側で、デジモンの群れを呼び寄せるような何かがあったと考えていいだろう」
加納も唸る。「やっぱり、〈選ばれし子ども〉が一箇所に二人集まったのがまずかったんですかね」
「本部もそう考えたいようだったが私が明確に否定しておいたよ。今の所、二人の子どもの因子が反応を起こすようなことは起きていないからね」
「そうですか、じゃあ何があったんでしょう?」
「私にもよくわからないよ。高視くんが交戦したと言うもう一人の闇の闘士に関係があるのかもしれない。ダスクモンと名乗るこの種との戦闘は既に二回目だ。こいつについても詳細な調査が必要だろうね」
「つまり、ダスクモンであれ誰であれ、何者かが悪意を持って今回のハザードが起きるように誘導した恐れがあると?」
「あくまでただの仮説だ。心当たりがあるかね?」
「いえ、何も」加納ははじめて〈アイス・ナイン〉を訪れた時にデリートしたゴーレモンのことを思い出していた。クラビスエンジェモン曰く、奴の稼働には上位存在の命令が必要らしい。
「そんなことをするとしたら、十闘士ですかね?」
「大いにあり得るね。実際ダスクモンは闇の闘士を名乗っていたわけだし」しかし、と四ノ倉は言う。「支部としては全くの第三勢力という仮説も崩さずに調べていこうと思う。ミチルちゃんも何かわかったことがあったら教えてくれ」
「分かりました」加納はそう言って電話を切り、ため息をついた。

         *****

「そんなため息をつきたくなるような電話だったのか?」上司との電話を終えた加納に僕は尋ねた。
「いや、そんなことはないんだけどさ」加納はそう言ったきり難しい顔をして黙っている。
やれやれ、と僕は思った。戦勝祝賀会をやろうと呼びかけバーを占拠した張本人である加納はおし黙り、高視はひどく落ち込んでいる。おまけに昼の間中冷蔵庫が止まっていたせいで酒もぬるく、氷もないと言う有様だった。ヒトミとギギモンだけが元気で、ストーンズの曲が流れるオーディオに向かっている。ギギモンもいつの間にか元どおりになっていた。オーディオの中でミック・ジャガーは歌う。誰か俺のベイビーを見なかったか?
そこに扉が開き、夏目秀が入ってきた。高視がハッとしたように目を上げ、そしてまた伏せる。
「こんにちは」夏目は僕に挨拶した後、高視の隣に座った。「高視さん、まだ落ち込んでるんですか?」
「君のことを守れなかったんだよ。責任を持って預かっていたはずなのに」
夏目は一瞬僕の方を見る。僕は肩をすくめてみせた。君にしかなんとかできないよ。
「ねえ、高視さん」彼は語りかけはじめた。「俺、今日友達ができたんですよ」
高視は少し顔を上げると、寂しげな笑みを浮かべて答える。
「君は友達づくりに困ったことはないだろう?」
「かもしれません。でも、そいつは今までとは違う−−」夏目は胸を張って言った。「親友ができたんです。そんな相手、今までではじめてですよ」
高視はもう俯いてはいなかった。実の親のそれと変わらない、深い喜びの情がその目に浮かんでいた。
「そうか」彼は何度もそうか、そうかと言った。「良かったな」
「ええ、それに俺もいつまでも守られてばっかじゃダメだと思ってたんです。今度テイルモンと俺に稽古つけて下さい」
「あのクワガタムシも強いからね、お願いするわ」テイルモンも現れ、バーカウンターの上で香箱を作った。
僕は微笑みながらヒトミの方を向く。ヒトミもいずれは守られてばかりは嫌だと言い出すのだろうか。その視線に気づいたヒトミがギギモンを抱えたままこちらに駆け寄ってきた。
「どうしたの?」彼女が首をかしげるのに寄り添うように目にかかる長さまで伸びた前髪が揺れる。
「いや、なんでもないさ、今度髪を切ろうな」僕は彼女の頭に手を置いた。子どももいずれは大人になる。でもせめて、それまでは。
ミック・ジャガーが歌う。たまに思うよ、彼女は俺の想像でしかないんじゃないかって。
こんな悲しい夜の街の歌が、彼女をとらえないように。
ヒトミがギギモンの体の三角形の模様を撫でていた。

ID.4764
 
■投稿者:マダラマゼラン一号 
■投稿日:2017/08/07(月) 19:51


六月の龍が眠る街 第四章 前編
「なんであそこで踏みとどまったんだ? 確実に仕留められた筈じゃないか」
真っ暗な部屋でベッドに横たわる私に、スピーカーの男が言った。私は暑い夏の夜に、下に一枚下着を着ただけの姿で眠りながら男と話していた。
「私に聞かないでよ。私がああなったら、自分を少しでもコントロールすることはできないって、知ってる癖に」
「ああ、すまないね。つい君をからかってしまいたくなるんだ」男が心底申し訳なさそうな、ねっとりとした甘い声で言う。スピーカーから溢れたその声が裸も同然の身体に絡みついてくるような気がして、私はひどい悪寒を覚えた。
「気持ち悪い声を出さないで」なんでこの男にこんなにも生理的な嫌悪感を覚えるのだろう? 私は彼の声しか知らないのに。
「そんなに怒らないでくれ。私だって君のことをちゃんと大切に思っているんだよ」
「だったら一回で覚えてくれる? 私が選べるのは〈あの力〉を使う時間と場所だけ、それからのことは、私には関係のないこと」
「そうは言っても、実際に動くのは君自身の体だろう?」
「やめてよ、今日はしつこいわね。何が言いたいのよ」
「私たちは共犯だということだよ。例え君が何も覚えていなくても、事実君は自分の手で少なくない数の命を手にかけているんだ。そしてそうすることを選んでいるのは、他ならぬ君自身なんだよ」
私はひゅっと息を飲んだ。いつも考えないように、考えないようにとしていること。私は本当に何も覚えてない。でも私の身体は、それをいつの間にか覚えてしまっている。耳には悲鳴が、目には血飛沫が、鼻には血の匂いが、そして手には感触が、知らないうちに染み付いてしまっているのだ。それを思うたびに、私はひどい過呼吸に襲われる。露わになったままの胸を押さえて落ち付けようとした。過呼吸は起きなかったが、目からはとめどなく涙が溢れる。この生暖かい塩水の感触が私は昔から嫌いだった。涙がなんの痕跡も残さずに夜の闇に解けて仕舞えばいいのに。今頭を乗せている枕だって、こんな汚れた私の涙など吸いたくはないだろう。
「なんでそんなこと言うのよ! 私はあなたの望むことを、ちゃんとやってあげているじゃない!」
「そうだね。そして私はそれにちゃんと対価を払っている。昨日の分はちゃんと振り込んでおいたよ」
私はさっきよりももっとひどく、声を漏らして泣いた。身体を売っているような気分だ。私の周りにも、そういうことをしているという噂がある子がいる。その子も、自分の体で稼いだ汚れたお金を受け取った時にはこんな風に泣くのだろうか。
「そう泣くんじゃない」男は嬉しそうな声で言った。私の涙が、この男を悦ばせているのだ。涙を止めたかったが、そう思えば思うほど声は止められなくなる。
「次の仕事の話をしようか、しかし今はやめた方がいいね。後で文面にして送るよ」男はまるで女を気遣う心優しい紳士であるかのような口ぶりで言った。
「これならもずっとそうして、もうあなたと話したくはないわ」
「でも君は私の話を聞かなくてはいけない、生きていかなくてはいけないからね」男は最後に言った。「大好きだよ」
その言葉を聞いた私の身体中に大きな震えが走る。沈黙を取り戻したスピーカーに向かって手元の枕を投げつけた。
「大っ嫌いよ、あんたなんか」
私はまだ涙を流したがる身体に鞭打ち、身体を起こした。ベッドのスタンドランプをつけるとLEDライトの白い光が目を刺す。ひどい頭痛をおぼえた。昼間の太陽を浴びた時にはもっとひどい頭痛を起こす。私はもう光をまともに見ることもできなくなってしまった。
「あの人も、そうなのかな」彼も、眩しい光に刺すような痛みを感じるのだろうか。彼のことを考えると、少し心が安らいだ。
涙は正常な証拠だ。どんなに身体が汚れても、心はそれに慣れてはいけない。私は泣き続けないといけない。いざという時に、私自身が正しい道を選ぶために。

あの人を、壊してしまわぬように。

         *****

長いトンネルを抜けた瞬間に電車の中を眩しい夏の光が照らし出し、北館祐はひどく顔をしかめた。
「ユウ、大丈夫か?」通路を挟んで向かい側の席に座る夏目秀が心配そうに声をかけてくる。北館は首を振って言った。
「昔からこうなんだ。あんまりにも陽の光が強いと、頭痛になっちゃうんだよ」正確には一三歳の頃、〈十闘士〉の一人として選ばれ、闇のスピリットを受け入れた時からだ。スピリットは受け入れた人間に進化の力を授けるだけでなく、その体質に様々な影響を及ぼすらしい。闇のスピリットだから光に弱くなる。筋の通った話だがまったく迷惑極まりない。ちなみに一条秋穂は鋼のスピリットを受け入れてから妙に腹筋が硬くなってしまったとぼやいていたが、それがスピリットの影響かについては北館は半信半疑だった。
「痛み止め、貸そっか?」彼と向かいあった席に座る三浦真理がリュックサックから薬の箱を出してきたので、北館は慌てて手を振った。
「いや、ありがたいけど遠慮するよ。そこまで大したことでもないし」
「真理、それ、生理痛のために持ってるやつでしょ。軽いノリであげちゃわない方がいいわよ」夏目の向かいに座る美嘉が声をかけてきた。好きな女の子の生理の話題についてどんな顔をすればいいのかわかるほど人間ができていない北館は何も言わず俯いた。沢山持ってるから別にいいのに、と真理が言う。
北館達は夏休みの課外学習のために鈍行の列車を乗り継いで青森に向かっていた。青春18きっぷを使っているからそう金はかからなかったが、道中はとにかく退屈だ。テイルモンも夏目の座席の下に寝転がり(あそこものすごい暑いんじゃないのかな、と北館は気になって仕方なかった)欠伸をしている。
向かい合わせになった四人席を二つ、彼らは占領していた。片方には夏目秀と彼から一時も離れようとしないと美嘉と絵里、もう片方は北館と真理が座っていた。
「私たちはステファンと一緒の席になってあなたは真理ちゃんと二人きり、何一つ問題ないでしょ。恥ずかしいからイヤだなんて言ったら北館君一人だけ荷物と一緒に座ってもらうから」というのは北館の真理への気持ちを知る絵里が席決めの時に彼に囁いた脅しの言葉だ。まったく、恋する乙女というのは恐ろしいものである。
「青森に着いたら、まず何する?」美嘉がメンバーを見渡して尋ねた。研究テーマは太宰治だが、女子二人にとってはこれからの三日間には学年一のイケメンとの泊りがけの旅行であること以外に意味はない。太宰治なんかは北館みたいな文学オタクに任せておけばいいのだ。
「俺は知り合いに挨拶したいかな。宿の近くで夏の休暇をとってるんだよ」夏目が言った。神原ヒトミとその周りの大人達のことを言っているのだろう。北館が秋穂から聞いた話だともう既に店を閉め向こうに行っているということだ。班のメンバー全員で彼らに会いにいくにいくようなことはできないと北館は予め夏目に言っておいた。彼はバー〈アイス・ナイン〉を襲撃した時に辻玲一に素顔を見られてしまっている。レーベモンの正体が北館であることを秘密にすると誓った夏目はその願いを聞き入れてくれた。
「それも明日にした方がいいな」北館は言う。「着く頃には多分もう夜だ。宿に入って寝る以外には何もできないと思うよ」
「今どこの駅?」女子二人とトランプに興じていた夏目が北館のその言葉に尋ねた。彼は窓の外に目をやり案内板の駅名を読み取る。
「花巻だよ、宮沢賢治の故郷、えーと」彼は地図にその地名を探した。
「岩手の真ん中よりちょっと南寄り、って感じかな」真理が彼より先に言った。
「えーっ、まだそんなとこ?」岩手長すぎ、と美嘉が言った。「ここで降りちゃおうよ、研究は宮沢賢治でいいじゃん」宮沢賢治も太宰治も大して変わりはないと言いたげな口ぶりだ。
北館は苦笑して窓の外に目をやる。秋穂はどこで何をしているだろうか、一週間前の〈会合〉で、流石に班でまとまっての研究旅行に秋穂がくっついて行くのは無理があると言った彼に彼女は胸を張ってみせた。
「私がそんなアタマが悪い手を使うわけがないじゃない。こう見えて知性派タイプなの、私」
「鋼の腹筋を持つ武闘派だと思ってたけど」
「ユウくんだって十闘士に関わる神話をちゃんと知ってるはずだよ。鋼の闘士は〈世の理を知る賢者〉なんだからね」賢者ねえ、とからかう北館に秋穂はムキになって言った
「とにかく、行く方法は秘密にしておくわ。向こうで私と出会うことになった時のユウくんの顔が楽しみね」

          *****

僕は青森の屋敷の中庭に面した部屋で昼食のそうめんをすすった。中庭はそこまでの大きさこそないものの、苔むした岩や木の美しい緑を桔梗の紫の花が彩る立派な日本庭園だった。窓を開け放てば、庭園の景色に多少は涼しさを感じることができる。
とはいえ、風情だけで乗り切れるほどこの夏は生半可なものではなさそうだった。テレビ番組がその年を「十年に一度の猛暑」だと報じるのにはとっくに慣れっこになっていたが、今年の暑さは確かに異常であることを肌で実感できる。これではなんのためにわざわざ本州最北端の県まで来たのか分かったものではない。
「やっぱり玲一さんの作る料理は美味しいですねー!」
僕は一条秋穂という少女のその言葉に苦笑した。「ただのそうめんじゃないか、誰が作っても同じだよ」
「でもやっぱり特別美味しいですよ。ヒトミちゃんもそう思うよね?」タンクトップ姿の彼女の言葉にヒトミもにっこりと笑ってみせた。ヒトミはカナリヤ色のシャツを着て、髪を横に束ねている。結局髪を伸ばしたまま青森まで来てしまっていたのを、一条秋穂がピンク色のゴムでまとめてあげたのだ。
周りがトウのたったオジサンばかりだと退屈だろうから友人を青森行きに誘っても構わない、と言ったのは僕だ。てっきり小学校の友達を連れてくるだろうと思っていたのが、女子高生を引っ張ってきたのには驚いてしまった。
「ヒトミちゃんとは、私が参加してる地域ボランティアの活動で知り合ったんです」というのは一条秋穂の言だ。聞けばヒトミの学校もそのボランティアに参加していて。街のごみ拾いをしたり、花壇に花を植えたりする中で一条秋穂と特に仲良くなったのだという。首にヘッドフォンをかけたその少女は、地味な見た目の割に快活で悪い人間ではなさそうだったが、決して真面目な印象−−少なくとも進んでボランティア活動に参加するような印象−−は受けなかった。とはいえ、高校生の夏休みをわざわざ大して知らない幼い少女とその取り巻きのオジサン達との旅行に費やすような子だ。少し普通ではないところが大いにあるのだろう。ヒトミと仲が良いことだけは間違いなさそうだったので連れていくことにした。
「そういえば今日は、高視がこっちにくるんだな」僕は何とは無しに呟いた。まったく偶然なことに、夏目秀も夏休みの課題研究のために青森を訪れるらしい。それに伴い。高視聡もこちらにやってくる。彼は少しも遠慮することなく僕らが借りたこの家に泊まると宣言してきた。もっともこの家はヒュプノスの仙台支部長の持ち家らしいから、仮に不満でも僕には文句を飛ばす権利もないわけだけど。
「何か言いました?」秋穂が声をかけてくる。まったく耳ざとい子だ。
「おじちゃんがもう一人来るんだよ」僕の代わりにヒトミが質問に答えた。彼女は大人達のバーでの会話をほとんど盗み聞きしていて、僕たちが立てていた旅行の計画についてはなんでも知っている。ヒュプノスだのデジモンだののことは言ってはいけないということはちゃんと分かっているみたいだったのでこちらとしては構わなかった。
「そうなんだよ。悪いね、折角の夏休みなのに、同級生達と予定はなかったのかい?」
僕の問いに秋穂はにっこり笑って見せた。「ないこともないですけど、私はそれよりどんな人が来るのかの方が気になります。加納さんや玲一さんみたいにイケメンですか?」
「お世辞を言う相手を間違ってるよ」僕は苦笑する。加納がなかなかにハンサムな顔立ちをしているだけに、ついでで付け加えられた自分の立場に若干の虚しさを覚えた。高視の顔を立ててやることも考えたが、僕は高視よりも男前の奴がついて来ると言って夏目の話題を出すことにした。高視には僕と一緒に比べられる者の虚しさを味わってもらうとしよう。
「夏目って、光台高校の夏目秀君ですか?」私も光台高で、夏目君とは同級生なんですと秋穂は言った。知り合いならなおのことイケメンの来訪を喜んでも良さそうなものだったが彼女の反応は思ったよりそっけない。まるで夏目の合流を初めから知っているかのような態度だ。それとも単に年上が好みなだけかもしれない。僕は後者の説を採った。そちらの方がなんとなく気分がいいからである。
「それにしても、ハンサムボーイの加納さんはどこに言ったんだ? 昼飯も食わずに」素麺を片手に煮えたぎる前の鍋に立ち、食事の準備をするよう少女たちに呼びかけた時にはもう彼の姿は見えなかった。あれから一時間弱ほど経つが、彼が帰って来る気配はない。
「長電話だよ」ヒトミが言った。つまり、仙台にいるヒュプノスの上司と電話をしているのだろう。一般人の秋穂がいるために、この家の中ではデジモン絡みの話は持ち出せなかった。僕は男用の寝室で涼みながら眠っているギギモンのことを思い出す。スーツケースにギギモンの赤い体を無理やりに詰め込んでここまで連れてきた時には秋穂のいる前で飛び出して来るのも時間の問題だと思っていたのだが、体内に熱を溜め込んでいる龍型デジモンにとって夏は厳しい季節らしく、昼間はずっと大人しくしてくれている。それに関しては今年の猛暑に感謝しなくてはいけないなと思った。
そう思った矢先、二階でごそごそと音が鳴った。ついに始まったか、と僕はため息をついて秋穂に目をやる。彼女はまだ上で暴れ出した龍がいることに気づいていないようだ。ヒトミの方を見ると彼女もこっちを見て、歳に合わない不敵な笑みを浮かべて目配せをしてきた。どうやら、ここは自分に任せておけということらしい。
「ここは暑い、ちょっと二階に引っ込むよ。二人は好きに遊んでてくれ」そう言って、僕は立ち上がった。二階へと向かう僕の後ろでヒトミが秋穂に囁くのが聞こえた。
「秋穂姉ちゃん、アイス買いに行こうよ。玲一おじちゃん歯に悪いってなかなか買ってくれないんだよね」
やれやれ、と僕は首を振った。全く頼りになる子だ。バーでの生活の中でヒトミが妙な処世術を身につけているのではないかと思うと少し怖くなった。
二階に上がると光の差してこない廊下の埃っぽい静かな涼しさが身にしみる。前をみると、ペチペチという足音とともにギギモンがこちらまで歩いてきていた。
「部屋の外に出ちゃ駄目じゃないか」僕は言ったがギギモンはそれを意に介することなく小さな足で歩き続けている。力づくで部屋に連れ戻すことも考えたが、ギギモンが唸ったり噛み付いたりして騒ぎになってはまずい。「分かった分かった。外に連れてってやるよ」僕はかがんでギギモンにそう言うと両手を前に差し出した。それなら文句はないと言うように鼻で息を一つしたギギモンがその腕に飛び乗る。ギギモンを背中で隠すように持ちながら階下に降りるとヒトミと秋穂はもう出かけた後だった。玄関の扉を開き、家の前の通りを見渡す。さすがは田舎といったところか、人影は全くない。そのことを確認して僕がギギモンを下ろすと、彼は西の方向にまっすぐ歩き始めた。
「おい、どこ行くんだ」僕もそれを追いかける。

          *****

「支部長、そっちは問題ないですか?」加納満は家の裏の道路に立ち仙台支部長の四ノ倉正敏に尋ねた。人影は彼以外に一切ない。住民はいるらしいが昼間はほとんど会うこともなかった。
「ああ。今の所、軽微なリアライズしか起こっていないよ。そちらは何もないね?」青森の屋敷を夏一杯貸してくれているのだからもう少し恩着せがましい態度を取っても良さそうなものだが、加納にはむしろ四ノ倉が旅行の話題について避けているようにさえ思えた。奥ゆかしいというかなんというか、何にせよ金持ちの考えることは分からない。
「こっちは上々ですよ、高視も今日の午後には着くって言ってましたし。しかし立派な家ですね。支部長の家ってなんかそういう家系なんですか?」加納は不躾な質問と知りながらもそう聞いた。屋敷の中には至る所に家紋入りの桐箪笥や古伊万里の花瓶、名のある画家(加納も辻も絵のことなど何一つ知らない。秋穂がそう言ったのだ)の手になる掛軸が置いてあり、歴史を感じさせる家だった。加納の質問に四ノ倉は妙にまごついて、いや何も知らない、というふうなことをもごもごと言った。本当に知らないはずはないし、かと言って謙遜しているようにも聞こえない。加納は首を捻った。
「そんなことは、どうでもいいんだ。聞いてくれミチルちゃん、遂に〈シャッガイ〉が完成したんだよ」
加納は空いた口が塞がらなかった。「ついこの間まで凍結されてた計画だと思いましたけど」
「ああ、しかし完成した。上層部も認可するだろう。シャッガイがあればリアルワールドにいるデジモンをあらかた片付けることができる。〈十闘士〉だってその例外じゃない」
加納は疑念の思いを隠せなかった。あまりにも寝耳に水の話だ。その時、道の向こうから辻がこちらに歩いてくるのが見えた。彼は足元に夢中でこちらに気づいていないようだ。その足元には赤色のゴムボールのような物体が転がって進んでいた。ギギモンだ。
「何してんだ、あいつ」加納は口の中で呟く。
「ん? 何か言ったか?」
「いえ、開発成功おめでとうございます。ちょっと切りますね」彼はそう言って電話を切り、辻に駆け寄る。
「何してんだ、こんなとこで」
「ギギモンが急に歩き出してな。どうも普通の様子じゃない」
「ヒトミちゃんはどうしてる?」
「一条さんとアイスを買いに行ったよ」
デジモンが出たらどうするんだ、と加納は聞かなかった。夏の暑さに頭をやられていたのかもしれない。
二人は赤い球体のゆっくりとした歩みを辿り始める。ギギモンは精一杯手足を動かしているらしい、それはわかるがその短い足での歩みは人間にとっては焦れったいものでしかなかった。



「なあ、加納」不意に辻が尋ねる。
「なんだ?」
「君が最初に僕の店に来てから、そろそろ二ヶ月だ」
「ああ」
「そろそろ、話してくれてもいいんじゃないか?」何を、という必要はなかった。二人ともちゃんと分かっている。
「『二年前』のことか」
「そうだ。君のトラウマなのは分かっているが、これからデジモンに向き合っていくためにも僕は…」
「待て待て待て、みなまで言うな」加納が手を振って辻を制止した。
「ちゃんと話してやるさ。俺もそろそろ、自分の気持ちを整理していい頃だ」そう言って、加納はぽつりぽつりと語り始めた。

          *****

「いやー、暑いね」秋穂は紫色のアイスキャンデーを舐めながらヒトミに話しかけた。ヒトミは薄いピンク色の自分のキャンデーを一生懸命舐めながらこくこくと頷く。
「わたしこんなアイス久しぶりに食べたよ。懐かしいな」秋穂は言った。今ではアイスを買う場所はスーパーマーケットかコンビニで、こういうアイスキャンデーを食べられる機会は滅多にない。この味を知ったのは家の近くにあった駄菓子屋でのことだ。50円を握りしめ、幼馴染の北館とよく棒についた小さな氷の塊を味わったものである。私たちの子ども時代って、そういうものが丁度息の根を止められた時期なのかもしれないなと秋穂はしみじみと思った。親達が「昔はどこもこうだったのよ」と懐かしみながら連れてきてくれたいくつかの店は、知らないうちになくなってしまった。その間に北館と私は〈十闘士〉に選ばれ、二十四時間営業のハンバーガーショップが会合の場所になった。時代に取り残されたようなさびれた青森の町にあの頃と同じような駄菓子屋を見つけて、柄にもなくはしゃいでヒトミを連れ込んだのだった。
「私はこういうアイス食べるの、初めて」舌を休ませながらヒトミがぽつりと言った。
「うわー、ジェネレーションギャップってやつ? 」秋穂は笑う。「今のアイスの方が、よっぽど美味しいよね」
「でも、私はこれ、好き。父さんと母さんが小さい頃作ってくれたのに似てる」
へえ、と秋穂は思った。彼女はヒトミのことを調べていく中で彼女の両親のことやその友人であったという辻玲一の事情も知っていたが、彼らにあまり同情的にはなれなかった。事情がどうあれ、幼い子どもがいるのにデジモンを相手に夫婦で命を落とすようなことをしていた親や、その子を引き継いでバーみたいな劣悪な環境に住ませる友人がいい人間であるとは彼女には思えなかったのだ。しかし、辻玲一と会ってみるとどうも事情は違うらしい。彼はヒトミに普通の親が普通の子どもにする以上の愛情を注いでいるように見えたし、ヒトミの口からは両親が任務で家を空けていては到底育むことのできないほど多くの幸せな家庭の思い出を聞いた。その幸せと同じくらいの悲しみとトラウマを抱えているとはいえ、この小さく寡黙な女の子はそれなりに楽しく暮らしているらしい。
「ヒトミちゃんはさ、学校、好き?」
「好きだよ、友達だっている。みんなとちょっと話が合わないことはあるけどね」それはバーでの暮らしのせいで彼女が他の子より少しませているというだけのことだろうか、それとも彼女の〈選ばれし子ども〉としての因子によるものだろうか。
「じゃあ〈アイス・ナイン〉は?」
「大好き」ヒトミがにっこりと笑って言った。そしてその後、内緒だよと言うように口に手を当てて何か話そうとする。秋穂もヒトミの頭の高さまでかがんで耳を傾けた。
「ホントはね、あまり好きじゃなかったの。一人で家にいるのが寂しかっただけ。あそこに来る人たちはみんな楽しそうなのに、玲一おじさんは悲しそうにしてるんだもの」
「でも今は好き?」
「うん。ミチルさんや聡さん、シュウくんが来るようになって、おじさんとっても楽しそうにしてる。それにギギモンやテイルモン−−」そこまで話してから、しまったと言うふうにヒトミは口に手を当てた。秋穂はにやりと笑う。
「大丈夫だよ。私もギギモンやテイルモンのこと、ちゃんと知ってるから。コレは玲一さんには内緒ね?」
ヒトミはびっくりして口に当てた手を離す。「おねえちゃんも〈選ばれし子ども〉なの?」
「そんなところかなー」秋穂は内緒だよ、と念押ししてから尋ねた。「ヒトミちゃんは知ってたんだ。自分が〈選ばれし子ども〉だってこと」ヒトミはこくんと頷く。とすると加納満が白状したのか、と秋穂は考えた。自分の母親が〈選ばれし子ども〉であったために死んだと言うことはいくらなんでも彼女は知らないだろうけど。
「そのことについて、どう思う? つまり、〈選ばれし子ども〉って言うのはいつか、無理やり戦わせられなきゃいけないんだけど」秋穂は真剣な面持ちで尋ねる。この質問に対する答えで彼女は一連の件に対する自分の態度を決めるつもりだった。もともとギギモンを手にかけるのは気が進まないし、ヒュプノスやデジモンが絡んで来たことでヒトミの生活はどうやら明るくなったらしい。ヒトミの答え次第ではギギモンのことは諦めよう。〈十闘士〉に対する背信行為だと言われても知ったことではなかった。それを言うなら北館だって同じことだ。彼がもうテイルモンに手を出す気が無いことを彼女はちゃんと知っていた。幼馴染相手に何か隠し事ができると彼は本気で思っているのだろうか。
「私、怖いよ」ヒトミが言った。「でも、戦いたい」
これは及第点とは言い難い回答だ。秋穂が言う。「ヒトミちゃん、嫌なことを無理にする必要なんてないんだよ。玲一さんやヒュプノスのお陰でヒトミちゃんが今幸せなのは分かる。でもその人達への恩返しなんてことは−−」
「ううん、違うの」彼女の言葉をヒトミが遮った。
「私が戦いたいのは私のため。私は今、毎日がとっても楽しいの。お父さんやお母さんがいた頃と同じくらい。それを誰かに壊されたくない。〈アイス・ナイン〉にみんなが集まって、おじさんやみんなが楽しくしてるのを、私ずっと見てたいの」だから、戦う。その幸せを守るために。
「そっか」自分の言葉への反応を気にするヒトミの視線を避け、秋穂はそれだけ言って立ち上がった。いつの間にか二人は家の前まで来ている。
「ヒトミちゃん、先入ってて」
「え?」
「いいから」彼女の有無を言わさぬ語調にヒトミは首を傾げながらも玄関を開けて家の中に引っ込んだ。



「あのさあ、私たちとってもいい気分だったのに。それを何? 盗み聞きでもしに来たわけ?」秋穂が家の前の通りの端から端まで響き渡る声で言った。その声に答えるようにどこからか黒い影が現れる。
「いや、お前らの話に興味なんてねえよ」
「じゃあ何の用? 意味わかんないんだけど」秋穂は怒りを露わにして目の前の影−−ダスクモンに言った。
「意味わかんねえのはこっちだ。お前一体どこから出てきたんだ? どう言うわけで連中につきまとってるんだよ」
「へえ」ダスクモンの問いに秋穂はせせら笑いで返す。「あんたも何もかも知ってるわけじゃないんだ。じゃあ教えてあげる」
彼女の右手にバーコードの渦が現れたのを見て今度はダスクモンが楽しそうに笑った。「そういうことかよ。だったらなおさら意味わかんねえ。お前が〈十闘士〉なら、さっさとギギモンを殺せばいいじゃねえか」
「気が変わったの」私だって、私達だって、自分の守りたいもののために戦うんだから。
「馬鹿馬鹿しい。お前らの考えはさっぱり分かんねえ」
「闇のスピリットの半分を持ってても、それが分かんないんじゃ〈十闘士〉失格ね」秋穂が手を前に伸ばした。「ユウくんの半身、返してもらうわ」
「スピリット・エヴォリューション!」

          *****

「美嘉と絵里はどこに行ったんだ?」北館はユースホステルの談話室で、向かいに座っている真理に尋ねた。真理は夏だというのに薄手のカーディガンを上に羽織っている。暑いなら脱げばいいのに、彼女の額に浮かぶ汗を見て彼は思った。
「太宰に関する石碑巡りですって、夏目くんがいない時はあの二人も真面目に研究してくれるみたいね」午前中に班全員で太宰の生家を見学した後、夏目秀は今日の午後から高視達に会いに隣町の屋敷に行っている。ついて行きたがるのを拒絶された美嘉と絵里はおとなしく研究に没頭することにしたのだろう。もっとも、面倒な資料のまとめとレポートづくりは北館達に一任されたわけだが。
「真理はついていかなくて良かったのか?」北館が尋ねる。
「別に、あの子達とそんなに仲がいいわけでもないしね」
ふうん、と北館が言ったきり二人の間に気まずい沈黙が降りた。各々がメモを取る時のペンの音だけが響く。
「ねえ、北館くん」ふいに真理が言った。
「どうしたの?」
「北館くんは、泣きたくなる夜って無い?」
「え?」
「夜中に何でもないことで目が覚めて、普段ならそのまままた眠れるんだけど、どうしても目が冴えてしまう夜」
「フィツジェラルドの言うところの〈魂の暗闇〉」北館が何とは無しに呟く。
「なにそれ、とにかく私はそういう時があるの。そんな時、私は辛いことばっかり考えて泣いちゃうんだ。時間の流れが遅くなってもうすぐ空が白んでもいい時間のはずなのに、なぜかずっと暗いまんま。結局いつまでも続くかと思える時間の中で、それが終わるまでベッドの上で座って泣いてるの」
北館は黙った。真理はどちらかといえばクールで率直な物言いをし、実際的な考えをする印象があった。その長く黒い髪と美貌から周囲からは「冷たい美人」という評価を受けている。そんな彼女が、ふいにこんな弱さを告白したのは意外だった。慰める言葉があるだろうかと彼は思ったがやめた。慰めに意味はないだろう。
「僕は昼にそういう時がある」北館は語り出した。「そういう日は朝からもう駄目なんだ。目が覚めた時に今日は憂鬱な一日だってわかる。少しでも気分を晴らそうといろんなことはするよ。友達とわざと馬鹿騒ぎをしたり、ちょっといつもより高いものを食べたり、熱い風呂に浸かったりする。でも駄目だ。結局はベッドに横たわって、少しの光も目に入らないように腕を顔に乗っけて、一日じっとしているしかない。いろんなことを考えながらね」
「例えばどんなこと?」
「やらなきゃいけないのに出来ないこととか、自分がみんなの足を引っ張っていることかな」実際、〈スサノオ〉プログラムの凍結は彼を苦しめていた。〈十闘士〉の最大の敵であるアイツ−−ルーチェモンを倒すために長年の世代交代の中で彼らが作り出したのが〈スサノオ〉だった。その発動には十闘士全員のスピリットが力を最大限発揮できていることが必要とされる。しかし闇のスピリットの半身を奪われている北館はその力を半分も引き出すことができなかった。闇のスピリットがもともと強い力を持っているために、力を半分にされたと言っても日常の戦闘では秋穂に迷惑をかけることはない。しかしいざという時、ルーチェモンが復活した時に自分が足手まといになって世界が滅びる、なんてことになったらどうすればいいのだろう。そういうことを彼は昼日中によく考えた。
「そっか」真理は悲しそうに頷いた。「じゃあ昼は嫌いで、夜が好き?」
「そうかもね」彼は真理のように夜悩むことはない、闇のスピリットには夜は友達だ。
「私はどっちも嫌い、夜はずっと嫌いだし、昼も最近無理になった」
何と言ってやればいいのか悩む北館に真理はこんなこと話してごめんねと謝り、そしてあの微笑みを浮かべた。
「今日も最悪だと思ったんだけど、今こうして北館くんと話してて、結構幸せ」彼女はそう言うと赤くなって俯いた。
          

ID.4765
 
■投稿者:マダラマゼラン一号 
■投稿日:2017/08/07(月) 19:51


六月の龍が眠る街 第四章 後編
「俺がヒュプノスのS級エージェントに選ばれたのは高校生の頃、高視と並んで最年少記録だ」加納の話の語り出しから僕は驚いてしまい話の腰を折った。
「お前ら、そんなすごいやつだったのか」
「まあな」彼は誇らしげにふふんと鼻を鳴らしたが、すぐに真剣な顔に戻った。
「でもそのことは、仙台支部ではあまり騒がれなかった。高校生の頃にもっとしんどい任務についていたエージェントがいたからさ」それが神原明久で、その任務とは〈選ばれし子ども〉である工藤咲−−後の神原咲−−の護衛だったというわけだ。
「俺は最初、明久さんをライバルだと思ってた。あの人よりもっと凄いことをしてやるって、若かったんだな」
そうやってライバルとして関わっていくうちに、加納はすぐに明久に懐いた。そこは明久の実力と懐の深さ−−ここは僕はあまり認めたくないけれど−−の賜物といったところだろう。
「咲さんのパートナーデジモンは、明久さんの訓練でどんどん強くなっていた。完全体まで育った〈選ばれし子ども〉のパートナーはほかに例がない」
先とそのパートナーは優秀なエージェントである明久とともに全国の注目を受けていた。
ところが。
「そのデジモンが二年前、突然進化して暴走したんだ」

          *****

息を荒くしながら膝をついたダスクモンをメルキューレモンは嘲笑うように見下ろした。
「その妙な剣も、君悪い目玉の催眠術も、私の〈イロニーの盾〉には敵わないみたいね」
ダスクモンは今起こっていることが信じられなかった。自分の力は一般的な〈十闘士〉のそれを遥かに凌駕するもののはずだ。しかし、腕の妖刀から放つ〈エアオーベルング〉は跳ね返され、鎧の目玉を用いた催眠術〈ガイストアーベント〉は鏡の盾に写された目玉で自分自身をフラつかせる始末だった。この二年間で、膝をついたのは初めてのことだ。
「さっ、貴方のムカつく声がどんなお顔から出ているのか拝見するとしましょうか」
ダスクモンは目の前に立つ美しい声の主が自分の天敵であることを悟ったのだった。

          *****

「二年前に暴走した咲のパートナーは、世界的にも稀なレベルの〈デジタルハザード〉を引き起こした。不謹慎かもしれないが、ネットワーク界のチェルノブイリって呼ばれてる」加納は言った。咲のパートナーが遂げた進化は全く意味不明の、突然の出来事だったらしい。愛らしい鳥の姿をしていたそのデジモンは禍々しい色の翼と空を覆うほどの巨体を手に入れた。そして我を失い暴走したのだ。
「俺たちエージェントも事態の収拾に必死になったさ、無視できない事態に十闘士も出て来た。でも俺たちはバカだったし、多分向こうもバカだったんだろう。俺と明久は、二体の闘士と戦った。奴らが事態の元凶だと思ったんだ」加納の声が震えている。僕は彼の方を見ずに、ただギギモンの歩みだけに目を向けていた。
「暴走を引き起こした〈アイツ〉が現れて誤解が解けた時には、事態は取り返しのつかないことになっていた。二人の闘士は〈アイツ〉を引き止め、俺たちは暴走したパートナーを必死で説得してる咲さんのとこに向かったけど、その時にはもう遅かった。俺たち三人は戦いに敗れ、三人一緒に死ぬところだった」
それなのに。と彼は言う。
「二人は、俺だけこっち側に突き飛ばしたんだ」
加納は今や声をあげて泣いていた。その肩を抱く。
「俺はあの時死んでたはずだ。終わった人間なんだよ」
「馬鹿言うな」しかし、彼の言い分を強く否定できない。この二年間、僕も似たような思いを抱き続けてきたのだ。
「そして、二人は自分達ごと、バケモノになった昔のパートナーをインターネット内に転送した。ネット転送に人間の体が耐えられるわけがない。二人はズタボロにされて、身体中が燃えたひどい状態で現実世界−−ヒトミちゃんの家の玄関に吐き出されたんだ」
その後、暴走したデジモンのデータは無害化され、今でもその質量はそのままにヒュプノス管理のもとでインターネットに置かれているのだという。その事件で凍結されてもいいはずだった〈選ばれし子ども〉計画は本部によって続行され、一度は加納達と協力した二人の闘士、闇と鋼は本部のその方針に衝撃を受けて対ヒュプノス強硬派となってしまったのだ。
「事件を引き起こした、〈アイツ〉ってのはどうなったんだ?」僕が尋ねた。
「死んだらしい、自分の暴走させたデジモンに殺されたんだ」
ギギモンが立ち止まり、ここだ、と言いたげに僕たちの方を向いた。
そこは町の郊外にある。古い廃屋だった。思えば随分歩いたものだ。ヒトミと秋穂はどうしているかなと僕は思った。

          *****

「お前達は…」高視聡はメルキューレモンとダスクモンをみて声を失った。思わずメモしておいた目的地の住所を見る。間違いなくここだ。
「オーケー、エージェントさん。詳しい説明は省くけど、この場合の味方は私よ」メルキューレモンが言った。
「この場に味方になれる二人がいるかよ」苦しそうな声でダスクモンが皮肉を飛ばす。
「おいサトル、こいつはどうなってるんだ?」グランクワガーモンが現れ、横の高視に尋ねた。
「ねえ聞いて、エージェントさん。私はもうあなた達が守る〈選ばれし子ども〉に手を出す気は無いわ。私が今したいことを教えてあげる。このクソ野郎を倒したいの」メルキューレモンの声を自分はどこかで聞いたことがあったかな、と高視は思ったが、すぐに現実に意識を戻す。
「その言葉、信じていいんだな?」信用の程度においては二人のどちらも限りなくゼロに近いが、ダスクモンには実際に殺されかけているのだから、味方をするとしたらメルキューレモンだろう。
「おいおいマジかよ」ダスクモンはひどく苦しそうに咳き込んだ。
と、その顔がひどく歪み、ダスクモンは突然むくりと立ち上がった。
「ちょっと、どこにそんな力が残ってたの?」驚いた声で叫ぶメルキューレモンを尻目に、ダスクモンは恐ろしいまでのスピードで逃走を図った。
「グラン!」高視が命じるより早くグランクワガーモンが電気の弾丸をいくつも放つ。一発はダスクモンの左腕に当たり、もう一発はその仮面の左半分を砕いた。よろめき、一瞬歩みを止めたダスクモンが振り返る。
「女の子…?」メルキューレモンが呆然として呟いた頃には、その影はもう形もなかった。
「何してるんですか! って、ええ?」立ち尽くす高視とメルキューレモンの前に夏目が現れ、素っ頓狂な声をあげた。
          *****
私は痛む腕を押さえてフラつきながら歩いていた。この有様ということは私はきっと戦いに敗れたのだろう。この二年間で初めてのことだった。
ポケットの携帯電話が鳴り出す。私は目を瞑った。相手が誰か分かっていたのでよっぽど無視してやりたかったが、出ないわけにはいかない。私は携帯電話を耳に当てた。
「やあ、私が力を注いだおかげで無事逃げきれたね、感謝したまえよ」いつもよりも間近にあの男の声を聞き、私の耳は腐り落ちてしまいそうだ。
「もう二度と、私の身体に触らないでほしいわ」
「実際に触れてはいないさ、そうしたいのはやまやまだけどね。君はひどいヘマをやった。今回の戦いをきっかけにヒュプノスと二人の闘士は合同の道を辿るだろう。それぞれが持つ情報を合わせた時に、奴らがなにが起こっているかを知るのは時間の問題だ。急がなくてはいけない」
「そう、それで、私にどんなことで埋め合わせをさせようってわけ?」
「そちらから聞いてくれるのを待っていたよ」男は甘ったるい声でその指令を告げた。
「闇の闘士を殺し、スピリットのもう半身を奪え」
私は目を瞑る。「殺したい時にレーベモンが向こうから出てきてくれるわけじゃないわよ」
男は声を立てて笑った。「馬鹿言っちゃいけない。君は闇の闘士の正体にきっと気づいているはずだ」
ああ、神様。「なんでそう思うわけ?」
「私がレーベモンを殺すよう言うたびに、君が適当なことを言って誤魔化してきたことに、私が気がついていないとでも思ったのか? 君にそんなことをする理由があるとしたら一つだけだ。君は闇の闘士である人物を知っていて、そいつに特別な思い入れがあるんだ。闇の闘士君に嫉妬してしまうよ」
「やめて」それ以上私の気持ちに踏み込まないでよ。
「やめて、とは随分勝手な言い草だね。さっきも言った通り、私は今まで君のその裏切りを見逃してきたんだ。しかし今回ばかりはどうしても闇の闘士君に死んでもらう必要がある。君は断れないはずだ」
その通り、私は断れないのだ。もう来るところまで来てしまったから。
「…少し考えさせて」
「ダメだ、今から二時間以内に殺せ。そうしないと、君の命も無い」男の声が急にきつくなった。それは悪魔の声そのもので、鳥肌が立つのを感じる。
「…分かったわ」男が大好きだよ、と言ってくる前に私は電話を切った。
私の目にはちゃんと涙が溢れている。大丈夫だ。私にはまだあの人を救うことができる。
「安心して、北館祐くん」

          *****

「これは…」僕は目をそらした。
「おいおい、勘弁してくれ」
ギギモンに導かれて入った廃屋の中で、僕と加納は吐き気と戦っていた。
焼け焦げた死体、しかし完全に黒く焦げたわけではなく、一部肉が残っていて、そこはひどく腐乱していた。白い骨がその顔から見え隠れする。
加納が鼻をつまみ、死体に顔を近づける。
「おい、よくやるなそんなこと」
「似たような死体は仕事で見たことがある。軽い検視もできるぜ」もっとも、こんなひどいのを見たのは初めてだけどなという加納に僕は舌を巻いた。全く人生経験豊富なやつだ。全部彼に任せて僕は外の空気を吸いに行こう。
「おい、待て」加納が僕を緊張した声で呼び止めた。
「なんだ、何も役に立てることはないよ」
「いや、もう終わったんだ」
「それで、何かわかったのか?」
「死者の身許、免許証が焼け残ってた」加納は死人のかつては服だったらしい炭の下からそれを慎重に持ち上げた。なるほど、ビニールのカバーが溶けているものの、免許証だ。
「それで、誰なんだ?」
「四ノ倉正敏」
「え?」
「ヒュプノスの仙台支部長だよ。俺が一時間前まで電話してた」
「それは」
「確かかって? いや、俺は死体の懐にあった免許証の名前を読み上げただけだ。きっとこの死体は別人で、たまたま死ぬときに後生大事に他人の免許証を抱えてたんだろうな」加納が冗談まじりにいうが、彼も僕も笑わなかった。
「じゃあ、やっぱりこれは」
「ああ、四ノ倉本人だろう。それじゃあ、俺が今日話した相手は誰なんだ? ご本人がこんなに腐乱するほどの時間眠ってる間、四ノ倉のふりをしてきたやつは? あいつ、俺が家系のことについて尋ねたら慌てて誤魔化したな、やはり別人なんだろう」
僕はすっかり混乱していた。「とにかく、警察を」
「待て!」加納が大声で静止する。「馬鹿を言うんじゃない。報告するのはヒュプノスの新宿本部だ。室長に直接話す。この辺に公衆電話ってないか? こうなったら、電話の盗聴も疑った方がいい」
そうやって僕らは行動を開始した。その最中、僕と加納は一瞬目を見合わせ、ギギモンを見た。
「お前、なんでここが分かったんだ?」
加納の問いに、六月の龍は無邪気に尻尾を振った。

          *****

「なあ、シュウ、僕に一から説明してくれないか?」ユースホステルの部屋の隅に立ち、電話に向かって間の抜けた声で話しかけた北館を夏目の硬い声が遮った。
「そんな時間はないんだ。いいか、一回だけ言ってやる。いまこっちにいるのは俺とテイルモン、ヒュプノスの高視さんとグランクワガーモン、ヒトミちゃんに鋼の闘士メルキューレモンこと一条さんだ。みんな勢揃い、誤解は解けて仲良く話し合ったところ、えらいことが明らかになった。というわけで俺が代表して、ロマンスを楽しんでるユウに電話してるってわけだ」
「なんて言い方をするんだ」北館はそう言って机についたままレポートをまとめている真理の方に目を向けた。彼女もこちらを見て、驚いたことにウィンクを飛ばしてきた。腰を抜かしてしまいそうになるが、なんとか耐えて電話に耳を傾ける。
「分かった、続けてくれ」
「いいか、一条さんと高視さん達は、今日の昼間ダスクモンと戦った」
「何だって?」
「黙って聞け、その戦闘の結果、ダスクモンは僕らと同じくらいの年齢の女の子が進化したものだと分かったんだ」
「そうか、それで?」あれが女の子か、北館は予想もしていなかった。
「俺たちは一つの仮説として、ダスクモンは仙台在住の高校生程度の年齢の少女だと考えた。ところで前に奴と会ったのはいつだ?」
「二週間前の〈デジタルハザード〉の時だよ、一緒にいたじゃないか」
「そうだ、その時、一条さんやヒュプノスのおかげで我が校の生徒は俺とユウ以外は無事避難をしていたはずだな? だが現場にいた高視さんによると、どうも違うらしい。もう一人、行方不明だった人物がいる。その人物は騒ぎの収拾がついた頃にいつの間にか戻ってきていたそうだ」
北館は顔をしかめた。彼は何を言いたいんだ?
「その人物が、もしかしたらダスクモンかもしれない。俺たちはその人物の正体を知るため、ヒュプノスの通信ログにアクセスした。高視さんと、オペレーターの鳥谷って人との会話だ」

          *****

ヒトミを含め、その場にいたメンバー全員が録音された音声に耳を傾けた。音声の最初は、行方不明者として報告された北館の特徴を高視が丁寧に報告しているだけだった。
「ここからだ」高視がいった。

『鳥谷さん、今の聞いてた?』
『はい、すぐに近辺のエージェントに共有します』
『ありがとう』
『それと、もう一つ行方不明の報告が来ています。二年生の女子生徒で名前は−−』


          *****

北館は唇を震わせて電話を切った。青い顔のまま真理の待つ席に戻る。
「夏目くんからの電話?」真理が尋ねた。
「そうだ」
「顔色悪いよ、夏目くんに何か悪いことでもあったの?」
北館は課外学習での話し合いの時、テイルモンがみんなに聞こえるように喋ってしまった時のことを思い出した。突然の声に呆然とする美嘉と絵里に対して、僕と夏目はその声が聞こえないふりをして誤魔化した。では真理は?




『私もなにも聞こえなかった。二人して空耳でも聞いたんじゃない?』




北館は堪えきれなくなったかのように大きな音を立てて立ち上がり身を乗り出すと、彼女のカーディガンの左の袖をまくった。そこに昨日まではなかった大きな紫色の痣がある。真理が痛みに顔を歪めた。




『グランクワガーモンがダスクモンの左腕に一発入れた。それで確かめてくれ』




「急に何するの、北館くん」彼女は驚いた声で言ったが、北館の泣きそうな顔を見て、同じくらい泣きそうな顔になって言った。
「そっか」




『それと、もう一つ行方不明の報告が来ています。二年生の女子生徒で名前は−−三浦真理』




「バレちゃったんだね」
「何で!」なんでなんだ、と北館は叫んだ。真理は哀しい顔のまま、ぽつりぽつりと語りだす。

「ねえ北館くん、私、あなたの事を高校で出会う前から知ってたんだよ」

自分があてがわれた闇のスピリット、その本来の持ち主がどんな人なのか、その人は自分が持つことになったもののために苦しんではいないだろうか。気になったから。

「北館くんは私が君から奪ったもののせいでとっても落ち込んでるみたいだった」

それなのに気丈に振る舞って、皮肉っぽい喋り方をして。

「高一の春、北館くんから好きだって言われて、私すごく幸せだった」

断ってごめんね。私は、君の敵だから。

「ねえ北館くん、私昨日、君も日光で頭痛を起こすんだって知ってすごく嬉しかった。生理なんて、ばっかみたい。私の痛み止めも、日光を見たときの頭痛のためよ」

真理は目からとめどなく涙を流していた。

「泣いたりしてごめんね。私の涙は、汚れた涙。夜の闇に溶けてくれないの。夜の闇は北館くんには優しいかもしれないけど、紛い物の私は駄目みたい」

最後に話せて、嬉しかったよ。

「このスピリットは一度発動したら私の手には負えないけど、使うかどうか選ぶのは私。誓ってあなたを傷つけはしない」
だから。

「ここで消えるね。最後に話せて、嬉しかった」



さよなら。大好きだよ。



夕暮れの光が差し込んだ部屋に、泣き崩れる北館だけが残された。彼の涙は夜と昼の狭間で行き場を失い、ただただ頬を伝うばかりだった。




            *****

「千鶴ちゃん、そこに支部長はいないね?」
加納が公衆電話から尋ねた。
家に帰った僕と加納、ギギモンは高視から何が起きているかを聞くこととなった。ダスクモンのことについては十闘士のメンバーに任せるとして(秋穂ちゃんがそうだったとは、やれやれ)、僕たちは今仙台でヒュプノスの支部長をしている四ノ倉を装った誰かを罠にはめなければいけない。ヒュプノスの新宿本部には既に加納が話を通し、極秘に援軍を送ると言う確約を取り付けた。今は盗聴の危険がないであろう秋穂の携帯から、加納が自分の担当オペレータの私物の携帯に電話をかけているのだ。
「問題ないですよ。逆探知も盗聴も有りません」
「頼んだことは、やってくれたね?」
「勿論です。とりあえず支部のファイアウォールを…」千鶴の声が止まった。
「どうした?」
「嘘でしょ、ここ、私の家なのに」その言葉は途中で悲鳴に変わった。




「千鶴! おい千鶴!」受話器からはやめて、
痛い、痛い、という悲痛な叫びが漏れ続けている。やがて、何か濡れた雑巾が床に落ちるような落ちるような音がして、悲鳴は聞こえなくなった。受話器から前に僕も漏れ聞いた、あの声が聞こえてくる。




「やあ、ミチルちゃん。調子はどうだい?」




「てめえ、千鶴に何をした!」加納が怒声を上げる。
「千鶴くんも天狗になっていたようだね。確かにネットのセキュリティは文句なしの鉄壁だったけど、そんなのは自宅のドアを蹴破れば関係のない話さ」
「何者だ、お前」




「覚えてないのかい? 二年前にも会ったじゃないか?」




「まさか…」加納が声を失う。
「あのくらいで私が死ぬはずないだろう? まったく、君が懐いていたあの夫婦のお陰で、計画の遂行が二年遅れたよ。しかしそれでも二年だ。命を無駄にしたものだね」
僕と加納の顔が声にならない怒りに白んだ。そのことを知ってか知らずか、声は甘ったるい調子を崩さない。
「あの死んだ女のパートナー、君たちが一生懸命育てていたあのデラモン、私が〈暗黒の種〉で進化させたら簡単に暴走して、全くお笑い草だったね。私はあれに用がある」
「デラモンを、これ以上どうしようっていうんだ」加納が受話器を持つ手が震えている。「あいつのデータは無害化された。ヒュプノスが厳重に保管してるはずだ」
「無害化だって? 馬鹿言っちゃいけない。復活は簡単さ。ヒュプノスはたっぷり時間と金をくれた。私が今扮しているこの四ノ倉という男が作っていた〈シャッガイ〉を馬鹿馬鹿しいデリートプログラムからあのデジモンを復活させるためのものに書き換えるのに、〈選ばれし子ども〉を口実に取り付けた予算がとても役立ったよ。それに、あの時奪い取った闇のスピリットの半身は私の手先としてよく働いてくれた」
「もう一度聞くぞ、お前、何者だ」加納がゆっくりと問う。




「私はムルムクスモン、二年前に暴走した『オニスモン』を復活させ、もう一度大規模な〈デジタルハザード〉を起こそうと思うんだ」
仙台と青森に、同じ夜の帳が下りようとしていた。